●共和政の複数統治と「筆頭市民」としてのプリンケプス
── 先ほど中村先生から、南町奉行所と北町奉行所の例が出ましたが、ローマの場合、長く保つための仕組みや制度についてどのようにお考えですか。
本村 大きくいうと500年続いた共和政期と、それ以後のローマ帝国になった時代があります。500年続いた共和政はとてつもない時代です。その成功要因に、前回中村先生がおっしゃったような「複数」があります。「コンスル」には二人が就任するというふうに、必ず牽制するようなつくり方がされている。もちろん「ディクタトール」というのもあって、非常事態の決定は一人で行ったほうがいいので、その任に就きますが、それも半年間に限定されました。
そういうふうに複数でいつも牽制し合うシステムを、ローマはその一番共和政の初めにつくった。エトルリア人が王になって横暴なことをしたので、それを嫌って、共和政のシステムをつくったときに、一番トップは二人にすると決めたのです。他の法務官なども同じで、必ず複数がつくことで牽制し合うシステムにしたのは、江戸の北町奉行・南町奉行と同じです。監視し合う力が働くのが長持ちしていく一つの秘訣じゃないかと思います。
── 帝政期になると、どういうイメージになるのでしょうか。
本村 帝政期になっても、もちろんコンスルはいるんですけど、実際の権力は皇帝に集中します。だけど、皇帝は「自分が皇帝だ」なんて、誰も言いません。つまり共和政の伝統が残っているため、「自分はローマ市民の第一人者だ」。つまり、ローマ市民名簿の筆頭に来る存在です。それが「プリンケプス」で、「元首制」と訳されます。あくまでもローマ市民の第一人者であって、元老院が最終的に認めた人が正式の皇帝なんです。
3世紀の「軍人皇帝時代」にはおびただしい数の皇帝が出てきます。70人ぐらいが皇帝を名乗ったなかで、実際に元老院が認めた皇帝は20数人でした。近代の立憲君主制ができる前の段階では、正式な皇帝を認める元老院という一つの大きなシステムがあったわけです。
トップを決めていくには、もちろん首脳同士の間でいろいろな話し合いがあるのかもしれないけれども、ローマの場合、元老院という確固たる制度があって、そこで最終的に認可されないと皇帝になれない。それはやはり共和政的な伝統のなかで、全体の認識を得ないとトップになれないという認識が、ずっとどこかで生きていたんだと思いますね。
政権を略奪するというのは、3世紀の非常な混乱期には出てきます。というか、むしろ軍隊が押し上げるわけです。しかし、いわゆる「パックス・ロマーナ」の時代に、自分から略奪したという皇帝はいません。もちろんネロみたいに、母親が暗躍して先の皇帝クラディウスを暗殺したのだろうといわれているような人はいるけれども、いわゆる帝位を強奪するというかたちはほとんどなかったのです。
●少年期に出世を振り分けた「御番入り」
── そのあたり日本の場合は出方も違いますが…。ただ、日本では、将軍家は血統でいきますが、幕閣がどうやって上がっていくかというのは、半ば民主的というか、なかなか面白い上がり方をしますね。
中村 あれは前髪立ちの少年のときに、一種の知能検査をやるわけです。それで、見どころのある者を「番入り」させる。書院番組や御小姓番組のようなところに、まず入れて、官僚としての教育が始まるわけです。その「番」に入れるか入れないかが旗本・御家人の倅たちの運命の境目です。10数歳で振り分けられるので、意外に早い。採用となれば万々歳で、一族が集まり赤飯を炊いてお祝いをしたほどです。
番入りのなかでも、書院番組と御小姓番組はベスト2です。このどちらかで一生懸命やると、遠国奉行にまで出世できるので数千石の収入です。うまくいってご褒美で長崎奉行などになると、3000~5000両は貯まるといわれたようです。そこまでいけば、1万石ぐらいもらって大名になるかもしれない。しかも若年寄か老中になれるかもしれない。となると、位人臣を極める可能性が出てくるわけです。
選ばれる条件は、頭がいい、気が利く、腹が据わっている、武芸に練達している。あと、書道がうまいのも大事だし、挙措動作が優美である、とかね。踊りなども身につけておいたほうが、「風情のいい」少年になるとか、いろいろあります。いわば特待生みたいなものなんだけど、なかなかよくできたシステムでした。
ですから、本当に人材不足に泣いたのは、幕末になってからです。それまでの2百数十年は、町奉行が二人いたのと同様に、いいシステムを考えて実際に役立っていたのだと思います。
優秀な少年を小姓に取り立てる制度は戦国時代からあって、信長の森蘭丸が有名ですが、小姓として仕えて大名に成り上がった例は、蒲生氏郷などいろいろ...