●ベン=グリオンの独立宣言と第一次中東戦争
1948年5月14日、ダヴィド・ベン=グリオンはテルアビブの博物館で、ヘルツルの肖像を前に独立宣言をします。イスラエルはユダヤ教の国家であると同時に、世界の中の民主国家であることを宣言するのです。
ところが、この宣言の数日後には、アラブの国々が寄ってたかってイスラエルを攻撃してきます。エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラクの連合軍2万3千人が、わずか数日後に結成されているのです。
イスラエル側は皆、素人ですが、ただ士気だけは軒昂でした。ハガナ軍3万5千人、イルグン軍3千人などの民兵組織に加え、武装入植者数千人が懸命に戦ったのです。彼らのうちの6千人が亡くなりますが、何とか頑張って1949年には停戦に持ち込む。この時には、国連が決めた土地より20パーセント広い領土を獲得しています。
その後イスラエルは、民兵軍を全て正規軍にして徹底的に訓練し、指揮命令系統を整備して、軍事力を充実させていきます。ユダヤ人の人口はどんどん流入して、独立当初60万人だった人口が数年後には140万人になります。ちなみに、現在は700万人です。
●パレスチナ難民問題の発生と今も続くナショナル・リスク
ここからパレスチナの難民問題が発生します。パレスチナ人の住んでいた場所に新しい国をつくってしまったのが原因です。前回お話ししたディルヤスーン村のような虐殺はしませんが、追放することには変わりがない。パレスチナの農民はひどい目に遭い、下層民が流出していきます。
最近、イスラエルを訪ねると、土地を奪われて難民キャンプにいるパレスチナの人たちがいろいろな形で入ってきます。普通の奥さんかと思ったら爆弾を持っていて、スーパーマーケットを爆破したりするのです。そのようなテロを防ぐため、イスラエルでは南北数百キロメートルにわたって、高さ20メートルの容易には越えられないコンクリートの壁がつくられています。全土につくる必要があるのかどうかはよく分かりませんが、壁を越えていい車と越えられない車では、ナンバープレートの色も違います。
そこまでして防いでいますが、イスラエルでは今でも北と南から、1日に何十発ものミサイルが撃ち込まれています。しかも、市街では年中爆破事件があります。
そのようなイスラエルへ、私は島田村塾の若い塾生の皆を連れて行きました。中にはご父兄が「そんな危険な所には、息子は絶対送れない」と言って参加されない方も数名いました。
現地に着いて話すと、イスラエルはブラジルよりはるかに安全だと言われました。「ブラジルでは通りを歩いていてもホールドアップで襲われる危険があるが、イスラエルにはそういうインディビジュアル・リスクはない。ただしナショナル・リスクはあって、ミサイルは飛んでくるかもしれない」と言っていました。
しかし、世界の多くの国はそういう場所が多いのです。日本のようにアメリカの抑止力で守られているわけではありませんから。
●10年ごとに繰り返される中東戦争
ともあれ、建国自体が難民問題の元になりましたので、イスラエルは10年ごとに隣国から攻撃を受けて、大変な思いをして生き延びていきます。
ナセルというエジプトの大統領がいて、1956年に「スエズ国有化宣言」をしました。これもまたイギリスが植民地時代にやったことに対する腹いせで起きた戦争ですが、イスラエルも相当影響をこうむります。極めつけとしては、その10年後の1967年に勃発した第三次中東戦争があります。
1967年5月22日、ナセル大統領がティラン海峡を封鎖すると宣言したために、いろいろなことが起こります。イスラエルでは、ナセル率いるエジプトの強力化を憂慮して、「放っておくと、やられる」と判断をする。
6月5日、ナセル大統領の宣言から2週間後に突如、イスラエルは近隣アラブ諸国の飛行場全てを襲撃し、空軍機を破壊して、制空権を握ります。数の多いアラブ諸国の空軍力を封じるのです。地上戦に持ち込んだ後、対エジプト戦線ではナセル軍を撃破してガザ地区を占領し、三つのルートからシナイ半島を攻略して、7日にはシナイ半島全域を占領。ヨルダンに対しては、6日までにエルサレム旧市街を、8日までに「ジェリコ」という歌で有名なジェリコ地区を含むヨルダン川西岸の全域を制圧します。先制攻撃の勝利そのものです。とうとう6日間でこの戦争は終わったため、イスラエルでは「6日戦争」と言われています。
●「嘆きの壁」の回復後、第四次中東戦争とその後
この時にイスラエル人が本当に喜んだのは、これまで国連管理下にあり、ヨルダンが入っていたエルサレムの「嘆きの壁」がイスラエルのコントロール下に置かれたことです。この「嘆きの壁」は...