●従来の歴史観からの修正
農業を人類の最大の革命と考え、そこから銅の文化、鉄の文化も発展し、人類が大きな生産力を持つに至ったという歴史観があります。これに基づいて日本でも、採集狩猟を中心とした縄文社会から、農業(米)を中心とした弥生社会に変わり、銅から鉄に変わった古墳時代に移る、という大きな歴史を描いてきました。
それに対して、若干の修正が出てきたのです。先ほど(第2話)触れましたが、コリン・タッジが、「大規模農耕になるに当たって、小規模農耕が先行する時代があった(いきなり大規模農耕にならないのだ)」と言うのです。
どういうことかといえば、必要な植物を庭などの住居の近くに植える、ということが繰り返されたのです。つまり、山や野原に行って「これは食べられるぞ、おいしいぞ」と分かったら、「これを庭に植えよう」となる。そういうことが根菜類で行われた形跡があるのだけれども、根菜類は核がないからなかなか検出できないのです。だから、小規模農耕論はなかなか普及しないけれども、小規模な農耕というものがあった、というのがコリン・タッジの意見です。
そこまで言ってくれると、私の研究分野である8世紀の『万葉集』について、ハッと気づくことがあります。何かというと、『万葉集』で「やど」という言葉が出てきます。「やど」とは、今の旅館などを表す「宿」とは違う意味があり、「建物の周り」を表します。
「やど」の「ど(と)」は場所を表す接尾語といわれています。建物(や/屋)があり、その周りが「やど」というように。その「やど」に、例えばハギといった、自分の好きないろいろな植物を植えるといったことが行われる。
平安時代になると、それを「前栽(せんざい)」という言い方をします。古典が好きな方は、庭の植え込みを「前栽」と言うことを知っているでしょう。実はこれが方言に残っていて、庭のことを「せんぜえ」と言う地域がある。私の郷里の福岡も、庭のことを「せんぜえ」と言ったりします。
想像していただいたら分かるのですが、田舎を少し歩いてみてください。家があって、そのそばにはだいたい小さな畑があります。それほど広くはなく、畳5、6枚ほど、大きくても7、8枚ほどでしょうか(10畳はないかな)。そこに、ちょっとした作物が植わっているのです。例えば、大根や豆類、ややおしゃれなものとしてハーブなどを植えていることもあるでしょう。そして、必要なときにそこから採ってきて食べたりする。新鮮だから、おいしいのです。
実はこれが、タッジのいうところの「小規模農耕」なのです。つまり、大農耕に先行する農耕があって、これが農耕の始まりであるという。これが最近言われてきていることで、それに近いことは現在でも田舎でやっているではないかと思うわけです。
●祖母が体現していた「小規模農耕」
ここからは私の体験になるのですが、私の家は九州の福岡です。福岡県の中でも朝倉市というところなのですが、そこのお寺の過去帳が正しければ――過去帳は嘘を書くこともありますから――私の祖先は、江戸時代前半からその地域に住んでいたことになります。しかも、無限にある祖先の中で、「上野」の名を継ぎながら男子でたどっていける祖先です。
その上野の家は、大正時代から昭和の前半にかけて、簡単にいうと和装が主流だった田舎に洋装が入ってきたときの商売で大成功し、それなりに大きな家になりました。しかし、昭和40年代にはそれも斜陽になってきました。そういった中で、私の祖父エンスケが亡くなります。すると、祖母が1人になるので「これはいけない」となり、それまでは祖父母の家と私の家族(5人)は家が別だったのですが、一緒に住むようになります。その頃は私の姉と兄はすでに独立していたので、3人の直系家族が住んでいたところに祖母が来た、ということです。
すると、私にも、父親や母親にもそのような趣味はありませんでしたが、祖母は来た日の翌日から庭を耕し、半分はお花を植え、半分はいろいろな生り物を作り始めました。
九州で暮らした人は分かると思いますが、九州のお中元にはそうめん(素麺)が非常に多い。有名どころがあるのです。長崎県の島原もそうですし、佐賀県の神埼市にもおいしいそうめんがある。だから、夏にそうめんを買うということはなく、もらいもので食べるのです。そのそうめんを食べるために、ミョウガを植えるのです。採れたてのミョウガを刻んで、そうめんつゆに入れて食べる。これが実においしいのです。
これは私自身が勉強したことなのですが、刺激物がある植物――山椒でも、タデでもいいですが――は虫を寄せ付けないために、内部に刺激物をため込みます。その刺激物が、腐敗を防止したり、味にアクセントを与えたりする。それがワサビだったり、ショウガだったり、ミ...