●「収」と「放」の循環
―― 強い中国という話がありましたが、最近世界的に注目されているのが、中国の強権的な面です。昔から中国の場合、チベットなど、各地をいろいろ弾圧しているのではないかという話がありました。アメリカなどに言わせると、今まさに新疆ウイグル自治区で行われていることは、虐殺ではないかという意見があります。
あるいは、イギリスなどを中心にして、香港に関するいろいろな措置に対して反感が高まっていると思います。確かにチベットのやり方などを見ていると、昔からの話ではあるので、これが中国共産党の伝統的な姿にも思えるのですが、これは習近平になって強まったものなのでしょうか。先生はどのようにご覧になりますか。
小原 毛沢東の時代に「収」と「放」という言葉があり、そういう意味でいうと、「収」がかなり進みました。「収」は「収斂する」、「収める」という意味です。ある意味で毛沢東にキューッと全ての権力を集中していき、それによって弊害が起きました。先ほど言ったように、鄧小平の時代には、それを改めます。つまり改革開放自身がある意味で「放」なのです。「放」は「放つ」です。つまり中央に全てを集中するのではなくて、もっとこれを下に、権力を下放していきました。要するに分散していきました。みんなの自主的な意欲や能力を引き上げることによって、経済を活性化しようということです。
そういう意味で言うと、中国は「収」と「放」の繰り返しなのですが、やはり1989年の天安門事件は非常に大きな転機だったと思います。あそこがある意味での絶頂でした。
文革が終わり、ある意味で政治改革というか、民主化のような流れが出てきました。鄧小平としても、それが社会の安定でした。中国では「社会の安定は全てを圧倒する」という言葉があります。あれだけ広い国で、あれだけの人口を持っている国ですが、歴史を見れば本当に乱れています。やはり一番怖いのは乱れるということで、鄧小平からすれば一番のワーストシナリオでした。そういう意味でいうと、とにかく社会の安定を保つためにあの天安門で軍を導入して、武力鎮圧したのが一つの転換点だったということです。
●中国ナショナリズムの興隆
小原 だから、あそこから少し保守化したのにも、その流れがあります。もちろん、胡錦濤政権のときには少しまだ期待があったので、アメリカを中心に、あの頃ぐらいまではどの国も中国に関与しました。中国をわれわれ西側の自由で開かれた秩序の中に引き込もうとしました。特に2001年には世界貿易機関のWTOに入れて、中国は大変な発展をします。そうした関与政策をすることによって、中国は民主化していくだろう、政治的にもっと開かれて、建設的なパートナーになってくれるだろうと思ってやっていたのですが、どうもそういうことではなかったのが、ここ数年で出てきました。
それにはいろいろな原因があると思います。一つはやはり近代の屈辱という、アヘン戦争以来の歴史を背景にした「屈辱感を晴らすぞ」という強いナショナリズムです。2008年ぐらいに世界金融危機が起きて、西側先進国がみんな経済的におかしくなる中で、中国は4兆元という投資もあり、いち早く経済危機から脱して、高い成長を確保して、一人勝ちのような状況を作ります。その後、2010年には日本を追い越して、世界第2位の経済大国になります。また、2008年には北京オリンピックも行われています。
そうなると、ある意味でそういう鬱屈したナショナリズムが、今度はその裏返しの強く過剰な自信に満ちたものになります。そうしたナショナリズムがまた出てきて、その時代から「アメリカなにするものぞ」、「ノーといえる中国」という形で出てきます。
特に世界貿易機関に入ってからは貿易がガーッと伸びるので、やはりその頃から中国の対外的な活動が活発になります。そうすると中国の国益が中国だけにとどまらず、世界に広がります。世界に広がった国益を守っていくためには、それなりに中国の力を外に出していかないといけません。例えば資源を守ることです。今アメリカに全部押さえられていますが、何かあったときにアメリカに押さえられたらアウトです。だからそういうものを守らないといけません。
一帯一路で、中東、アフリカ、あるいはヨーロッパに行く海のルートは、いわゆる「海のシルクロード」と言われています。これは「真珠の首飾り」ともいわれていますが、要するに拠点としていくつかの港に中国が支援をして、そうした港の使用権を得ます。これは一帯一路の中で「債務の罠」といわれていて、スリランカが非常に大きな問題として取り上げられました。
―― それは非常に過剰な債務によって、中国に取られてしまうのではないかという話ですよね。
小原 そうです。結局、運営権を中国の国営企...