●三十年戦争で1800万人の人口が900万人まで減った
―― 本書で、「まさにドイツだなあ」と印象深く思われるのは、渡部昇一先生がカトリック社会とプロテスタント社会の両方を描いているところです。ドイツは皆さんご案内のように、三十年戦争という非常に苛烈な宗教戦争がありました。
渡部 その中心地になったところですね。
―― そうですね。昇一先生も書かれていますが、当時1800万人の人口が900万人まで減ってしまうほどの殺し合いが行われました。それで結局「ウェストファリア条約」が発され、領主の宗教がその地区の宗教という決まり事になっていくわけです。
そのために、その対立が根深く残っている。昇一先生が行かれた時代でも、カトリックの方とプロテスタントの方の対話集会があると、集まるのは本当に善男善女の皆さんなのだけれども、話を聞いていくうちに、戦時中の日本の「鬼畜米英」のような話になってきて、「お前がどうだった」「ああだった」となりかねない。400年前はさぞ大変だっただろうということも書かれていました。
だからこそ、たしなみとして「お前はどっちの宗教なんだ」という質問はしない。当時のドイツでは、自分がカトリックで、好きになった相手がプロテスタントだったら、結婚できるかできないかのような話も含めて書かれていました。先生ご自身が行かれたときのご経験では、何かお感じになったことはございましたか。
渡部 私は1年しか行っていませんし、その後も長期旅行では訪れましたが、それほど住民たちの中に入り込めたわけではありません。そのため、私自身はエヴァンゲリッシェ(プロテスタント)とカトリックの人が争っているような場面は見たことがないし、基本的にはなかったと思います。彼らがもし論じ始めれば、それなりに論争になるでしょうが、おそらく父の時代ほどではないのではないかと思います。
そもそも「宗教の話はしないのがたしなみだ」と言われていたのは、やはり三十年戦争を経たからです。
30年のあいだに1700万人ぐらいいた人口が800万人に満たないような状態になった。原爆があったわけでも、機関銃があったわけでも、大砲があったわけでもない時代です。そんな頃にそれほどの状況になったのは、いかに他者が他者に対して残酷になったかということです。
そのうち、それは単なる宗教的対立を超えてヨーロッパの主導権争いの戦争になっていきました。傭兵たちによって、農民たちはまるで狩の獲物のように扱われましたし、農民たちの復讐も阿鼻叫喚でした。ついには食料生産もままならなくなり、食べるために赤ちゃんが売買されるような地獄絵図にまで落ちました。
その争いの元がキリスト教の解釈の問題であったわけですから、その経験はかなり根強かったと思います。
その経験を積んでいるから、もうその後は、新旧対立で争いを起こそうという動きはドイツでは絶えたわけです。その伝統がずっと残っています。
●出身地でほぼ決まっていた作曲家の宗派
渡部 私は音楽をやっていますが、川上さんがどの作曲家がカトリックで、誰がプロテスタントかをリストアップしてくれました。これを見ても分かりますが、もう出身地でほぼ決まっています。
―― 北のほうでは、どちらかといえば…。
渡部 (北のほうは)エヴァンゲリッシェ(プロテスタント)が多くて、南のほうはハプスブルグ家(=カトリック)です。ホーエンツォレルン家という18世紀にプロシアを築く北ドイツの勢力(はエヴァンゲリッシェですし)、それからザクセンはルターをかくまったぐらいですからエヴァンゲリッシェですが、ヴィッテルスバッハ家はバイエルンではカトリックの盟主ということで、出身地とほとんど一致します。
三十年戦争の後、だいぶたつと、出身地とは矛盾する宗派を信仰する人も少しずつ出てきます。しかし、領主の宗教に関わるという伝統は、その後の近代ヨーロッパをつくっていくうえで、ずっと残っていった一つの要素だと思います。
興味深いのは、正しさに依拠した人間がいかに残酷なことをするかという三十年戦争の悲惨さがもたらしたものです。この後、人間の関心は宗教よりも調和や理性といったところに光が当てられていく。「光が当てられる」というのは「enlightment(啓蒙)」といわれる啓蒙の時代に入っていくわけです。しかし、その力関係はずっと残って、近代ヨーロッパが成立していったのかという感じがします。
私は特に経験上、カトリックとエヴァンゲリッシェ(プロテスタント)の争いに出会った覚えはありません。しかし、彼らがお互いの言い分を言い始めると、時代を遡ってお互いの殺し合いの罪を言い合うことになるわけで、それが尽きなくなると大変なことになるだろうと想像できま...