●音楽の世界に宗教対立は反映したのか
―― キリスト教社会なるものがあって成立するもの、それを背景に生み出されたものに対する理解が深まると、西洋社会に対する理解が深まってくるのだろうと思います。
反面、音楽の世界では、例えばブラームスとブルックナーの場合、互いの弟子たちがけんかするようなこともあったりしますが、そういうときにもプロテスタントとカトリックの違いがどこか引っかかったりするものでしょうか。
渡部 私はそういう視点で見たことは全くなくて、このお題をいただいて考えてみたのですが、「言われてみれば、もしかしたら」というイメージはあります。ブラームスもシューマンも自分の個人的な心情の表現というものを非常に大事にする傾向が強い作曲家であるかな、という感じがします。バッハとは全然違うのですが。
一方、モーツァルトはもう本当に音楽そのものが鳴り響いている感じです。シューベルトも自分の表現としての歌をたくさん書いていますが、ゲーテの詩で書いているときなどは、宗教のことをあまり考えて音楽を書いてはいないとは思います。でも、シューベルトはウィーン少年合唱団の出身ですから、宗教的な素地はあった。
でも、確かにひとつの個人の考えや感情をとりたてて重要視して、芸術に反映させようとする傾向が、もしかしたらエヴァンゲリッシェ(プロテスタント)の人たちのほうにはあるかな、と少し感じさせる人たちはいます。
しかし、これは基本的に全部ウェストファリア条約の「選帝侯=領主の宗教が、その土地の民衆の宗教」という定めにほぼ準じているので、何とも言えないですね。この時はもう三十年戦争を経て100年以上たっていたので、宗教のことでけんかするのは、少なくとも教養のある人はほとんど控えていたはずです。内々では、エヴァンゲリッシェ(プロテスタント)とカトリックはなかなか結婚できなかったり、しなかったりすることもあったかもしれません。
●「国家主義」とプロテスタント、そしてカトリック
渡部 この後どんどん近代になってくると、本書(渡部昇一『わが体験的キリスト教論』)にはナチスの問題も書いてあるように、やがてドイツは国家主義的な方向へ向かいます。そこで父が興味を持った大切なことは、ローマ時代から起こっているカトリックという宗教は結局国際化を目指す宗教で、エヴァンゲリッシェ(プロテスタント)は国家主義的なものを目指しやすい宗教であるということです。
どうしてそうなのかというと、カトリックは古来からの伝統的な教義を疑わずに信じて規範として行うことが前提にあるが、プロテスタントは解釈次第でどんどんやっていく。だから、ある人が「これがいい」と言い、「これ以外は認めない」と言ったら、その人にとって正しいことで、いいという社会になります。
私は特段プロテスタントがダメであるとかカトリックがどうという宗論に加わる気は全くありません。私自身、それほど立派なキリスト教者であるわけでもないので。ただ、父が指摘している全体の流れは、カトリックのように教義をとりあえず大事にし、みんなで赦し合い協力し合うのが前提である宗教と、個人と神が向き合うプロテスタントのような宗教では、後者は国家主義的になっていくというものです。
父は、その究極的な形が、ドイツの場合はナチスではなかったかと言っています。プロシアが支配してからの一連の動きを見ると、そういう見方もあながちおかしくありません。
今もっと考えなければいけないのは、EUに至った経緯です。荒廃したヨーロッパの後にEECが出来上がり、その後EUになっていったわけですが、その最初の立役者はアデナウアー氏をはじめみなカトリックの指導者だったということです。
イギリスはその例外で、イギリスから立ったのはチャーチルなどそれとは別の人たちでした。しかし、それ以外はカトリック系を立役者として、一気にEUへ進んでいった。イギリスもまた巻き込まれて、そこに入っていくことになります。
●考えるべきは再び「三十年戦争を起こさないためにはどうするか」
渡部 今起こっていることは、「国際化=グローバリズム」というようになり、そこにもいろいろな解釈があって、良くもあり悪くもありということです。それは私には判断できないですが、そういう動きがいいということで世界に広まってきて、今弊害が出ています。
トランプ氏(前アメリカ大統領)などもそうですが、国家主義的な傾向が増す今は、歴史的な転換点なのだと思います。そこで私たちが考えなければいけないのは、「三十年戦争を起こさないためにはどうすればいいか」ということだと思うのです。それを考えても、この本は今読むと非常に興味深いものだと言えるかと思い...