●バッハの典雅で調和のとれた音楽の「切実な意味」
渡部 ひるがえってバッハは極めて重要な作曲家です。ルター派というエヴァンゲリッシェ(プロテスタント)は、これも父の本に書いてありますが、なぜか人間の五官という快楽の源泉を非常に憎みながらも、耳だけは重視しています。だからルター派は、音楽、とりわけ讃美歌を重要視しているのです。
バッハは、まさにザクセン公がルターを匿っていた城が郊外にあるアイゼナハというところで生まれています。この町の町楽師として、ルター派の教会音楽の重要なポストによくつくのが、バッハ一族だったわけですから、それこそガチガチのルター派の作曲家です。
バッハは本当に敬虔なクリスチャンで、自分が作品を書くのは神の栄光を示すためであるとして、彼個人が神様と向き合っています。また、教会関係のいろいろな役職にも就いています。
音楽でいえば、ルター派の一番巨大な名前のひとつだとは思います。しかもルター派の勃興に直接関係があり、その中で音楽を支えていた一族の末裔というか最大の名前です。その人がクラシック音楽上で極めて重要な転換点に立つ、頂点の一人であるというのが面白いと思います。
―― 以前、玄一先生にお聞きしたことですが、バッハが生まれたのが1685年で、前回お話のあった三十年戦争が終わって(編注:1648年)、30年ほどたった頃です。
渡部 わずかに三十数年後なのですね。国土が荒廃し、赤ん坊を食べるためにやり取りするような地獄の境涯から、わずか半世紀ぐらいでバッハのような音楽が出てきたという意味合いをよくよく感じると、やはりバッハの典雅で調和のとれた音楽の切実な意味が、より分かるのではないかと思います。
しかも、その美を極めた彼は、自分の個性や主張を表現しようとしたわけではありません。純粋に音楽的な音の美しさ、音楽のつくりを極めようとしました。そして、それが優れれば優れるほど、神様の栄光を表すものだと考えました。何も宗教を押し付けることではなく、自分の仕事の中でそういうことを達成しようとしたのです。
彼の音楽は端正で、比較的に明るいものが多く、言い方によっては「健康」ともいえる。健康で調和のとれた世界をつくり出す音楽を多数生んだのは、その時代バッハだけではなく、イタリアのヴィヴァルディもそうでした。もともとイタリアでできたものをバッハが取り上げて、さらに高みに押し上げていったわけです。
「ああ、あの三十年戦争のわずか30数年後に生まれた人が一番大きなものとして、こういう音楽をつくっていたのか」というのは、ヨーロッパを考えるときに感慨深いものだと思います。
●「マタイ受難曲」と「受難の典礼」
―― これは渡部昇一先生が本書に書いているエピソードですが、バッハには「マタイ受難曲」というキリストが磔になるシーンを音楽で表現した名曲があります。それを先生は現地で聴かれ、同じ時期に修道会に行かれて、キリスト教行事としての「受難の典礼」に参加されています。
その二つを比較されて、目を見開かされたところがあるというお話を書かれていました。これはキリスト教社会において音楽はどういうものなのかということを考えるうえで非常に象徴的な話だと思います。
渡部 まず、基本的に父の一番好きな音楽がバッハの音楽だったということがあります。「バッハの音楽は、やっぱりいい。こういう典雅な音楽を典雅と感じる文化は、世界にもそうたくさんはない。でも、日本にはあるぞ」とよく言っていました。だから「お雛様とバッハはよく似合う」というような表現をするのですが、それはともかくとして、バッハの音楽が好きでした。
最初に「マタイ受難曲」を聴いたときには、何しろ長い曲で3時間以上かかるかため父は退屈したようです。しかし、典礼のドイツ語の意味合いも分かるようになって次に聴いたときには、「3時間の緊張は快いものであった」と書いてあります。
先ほど言われたように父にとって大きな転機になったのは、当時のベルギーでの体験でした。父はイエズス会の大学を出ていますが、「外国人はキリスト教徒でなくてもいい」というベネディクト修道会に対して、非常に強い好意を持っていました。そこで、復活祭のときに1カ月ほど長期間滞在したことがあるのです。
長期間滞在している間に、復活祭の全ての行事を体験します。そのテキストは全部「マタイ受難曲」と同じテキストです。それぞれ聖木曜日、聖金曜日、復活祭の日曜日にそれらを追体験しながら、同じテキストでミサをやっていくわけです。そうすると、修道会の教会に集まってきた信者もみな音楽に参加するわけです。修道士たちも音楽や典礼をやる。それを全体としての体験として、復活祭を体験することができたわけです。
それは、やはりもうまさに...