●「根っこに宗教があった」――ドイツ人と日本人の違い
渡部 父の体験談の一つに、当時の(ドイツの)普通の主婦の人たちの話があります。ちゃんと大学を出て知的な修練を受けた人たちは、家事その他を完璧にこなしながら、学生だった父が招待されて訪問すると、いろいろな思弁的な話や人生の話、哲学の話などを何時間でも喜んで生き生きと議論する、ということでした。
その当時、(日本の)大学の哲学科を出た人は、西田幾多郎の『善の研究』をだれもがひも解いていた。ところが会社員になった後は、自分の読書をさらに突き詰めていくような人はほとんどいない。だから、ドイツの場合、卒業して主婦になったような人でさえ、「生きるとは何か」「正しいとはどういうことか」というような命題の与える知的興奮に対して、生き生きとした要求を持ち続けることが不思議でならなかった。
やがて、この違いの「根っこに宗教があった」ということは間違いないと分かった、と父ははっきり書いています。そういう知的好奇心の強さは、ある程度以上信仰の強い敬虔な人たちに必ずある。カトリックであるかプロテスタント(ドイツではエヴァンゲリッシェ)であるかはあまり関係ない、と言っています。
●ルターが攻撃した「免罪符」、その意味と誤解
―― 明治期に近代国家をつくろうとした日本人も、特に留学をしていたような人たちは、国家の他に、いわゆるキリスト教社会というものが厳然とあることに気づいたようです。道徳部分はキリスト教社会が支え、その上に国家がある、「二階建て」ということですね。この土台なしに、政府だけで「近代国家」ができるのだろうかというのが、開国した当時の人たちの大いなる悩みになったようです。
今、先生はヨーロッパの話をされましたが、アメリカの大統領選挙などの折にも、熱心なクリスチャンの方々が多い中西部(バイブル・ベルト)の投票行動などが取り上げられることがあります。私たちが現代社会を考えるうえでは、ヨーロッパにしてもアメリカにしても、そのベースにある「古き良きキリスト教社会」がどういうものなのかということが分からないと、多分見えてこないところがあると思います。
渡部 父も同様のことを言っています。アメリカのほうが長い私は、ヨーロッパとの違いを大きく感じます。ともあれ父のこの本(『ドイツ留学記 下』)を読んで分かるのは、やはりアメリカはプロテスタント(エヴァンゲリッシェ)のつくった国であるということです。
本書にはルターについてもくわしく書いてあります。「ルターが、お金を払ったら罪が赦されるという『免罪符』を攻撃した」というのは嘘というか、完全に間違いなのです。教科書でも間違えているものが多い。つまり、「罪の贖い(あがない)をお金で行う」ことがルターが攻撃した材料でしたが、それを「免罪符」と訳してしまったのが間違いなのです(編注:渡部昇一氏は「贖宥符」と呼ぶのが正しいとしている)。
罪を赦すことと罪をつぐなうことは別のことです。私たちが「免罪符」と呼んでいるのは「罪をつぐなう」ほうで、「お前が額に汗して働いて得たお金を教会に寄付するのであれば、それは罪のつぐないになりますよ」というのが、そもそもの考えです。
―― 「赦される(赦す)」ことと「つぐない」の違いですね。ここは日本人にはなかなか分かりづらいところだと思います。
渡部 例えば、ある殺人者がいて、法律的な裁きにより無期懲役あるいはそれに近い判決を受けたとします。その後30年ほどたって(刑務所から)出てきたら、彼は社会的に「罪をつぐなった」ことになります。しかし、殺された人の肉親などが、殺人の罪を犯した人を「赦す」というのは別の話です。
同様に、キリスト教の「免罪符」は「赦す」ほうではなく、「つぐなう」ほうです。神様の代わりに教会がそれを行っていいかどうかは別として、「つぐなわれたとしましょう」ということで、要するに裁判官の役目を果たします。「お前を赦す」というのはあくまでも神様です。
そこは間違えてはならないところですが、ヨーロッパでも混同されるところがあったりするので、父もはっきりと書いています。実際、カトリックのほうはいまだに免罪符を神学的に否定してはいないのです。ですから、そこを間違えてはいけません。
●アメリカの「個人主義」の底にあるもの
渡部 ただ、ルターは(カトリック側の)行動が高じてきてひどいからといって、どんどん考えが変わっていきます。「宗教改革(という呼び方)も間違いである」と、父ははっきり言っています。「教会分離だ」ということです。
それまでにも改革は何度も行われていたし、このときも改革ですめばよかったのですが、ルターはまったく新しい思想を持ち込んできました。「聖書と向き合うのは本人の...