●あらゆるものが「関係的」な存在だと示す「空-縁起」
―― (前回の最後に出てきた)「空-縁起」について、空はいわゆる「ソラ」と書く「空」ですね。縁起は縁を起こすと書いて「縁起」だと思うのですが、「空-縁起」となると、どういう意味になるのでしょうか。
賴住 「空」と「縁起」は、同じことを別の言い方、別の角度からいっている言葉になります。「空」というのは、あらゆるものは関係の中でそのものとなっているということであって、そのもの自体として存在しているのではないということです。
―― 一般的に「空」というと、「何もない」というイメージをよく受けるのですが、そうではないということですね。
賴住 そうですね。「空」というと、字面から「空っぽ」「何もない」というような感じを受け、誤解されることもありますが、そうではありません。「関係の中で存在している」ということで、それ自体として存在しているのではないということです。要するに仏教の「無我」の教えですが、無我も「自分がなくて人の言いなり」というような間違った捉え方をされることがあります。しかし、無我は、「自分という固定的なものがあるのではない」という考え方で、「空」と同じことになります。
―― いろいろなものとの関係性の中ということは、絶対的な自分というものがあるのではなく、むしろ相対的な位置づけとして自分があるのだというイメージでしょうか。
賴住 そうですね。自分というのは、他者との関係の中で常に移り変わっていくという捉え方になってくると思います。
また、「縁起」というのは、まさに「関係の中で起こってくる」ということです。人間もそうだし、あらゆるものが「関係的な存在」だということを、「空-縁起」という言葉は示しています。
●世界の原理に気づけないのは、煩悩に囚われた自我のせい
賴住 そういう「空-縁起」でできている世界を指し示していくときに、親鸞は「阿弥陀仏は無限の光(アミターバ)である」とか、別の言い方で「阿弥陀仏は無限の命(アミユータスである」といっているのです。
まさに命が光明であり阿弥陀仏であるという考え方になっていくと思うのですが、その場合の命や光といわれるものは、自分の命や自分の光ということではありません。世界全体が命や光に満たされていて、それが一つのかたちを取るときに阿弥陀仏になったり、念仏を唱える自分になったりする、そのような考え方になっていくのかと考えています。
―― 今のお話ですと、世界全体が光だということは、自分自身も光だということになってくるわけですか。
賴住 そうですね。本当はそうなのだけれども、煩悩をつのらせ、自分に執着して、自分というものがあると思っているから、その部分が見えなくなっていくという考え方になるかと思います。
―― なるほど。本来は光なのだけれども、その全てが関係性において成り立っている「空」であるということが分からなくなって、自分自身にとらわれてしまう。だからこそ煩悩や苦しみが生まれてくるという考え方ですね。
賴住 そういうことです。
―― そうしますと、源信についての講義にもあった「観想」について、「阿弥陀仏のお姿を思い浮かべましょう」「白毫を思い浮かべましょう」という話がありましたけれども、その仏さまの姿かたちをしたもの、阿弥陀さまというのも、ある意味では方便といえますか。
賴住 そうですね。観想念仏をしても、最終的にはかたちにこだわるのではなく、かたちのさらに先を考えていくのが浄土教なのだと私は思っています。つまり、観想念仏をしても、最後はかたちになるのではなく、かたちの背後にある世界を感得していく(見ていく)ということになる。専修念仏の場合も、やはり同じことになっていくのではないかと私は考えています。
●法蔵神話を超えたのは法然・親鸞の方便か
―― そうしますと、「全てが光だ」というのは、かなり抽象的で哲学的な表現になっていると思いますが、それが分からないと、「念仏すればいい」といわれるところのこころ(真意)も分からないという把握になるのでしょうか。
賴住 そうだと思います。例えば、法然の『一枚起請文』で「一文不知の…無智のともがら」と呼ばれていたような一般の人々に対しては、そのような複雑なことは説かないと思います。「お念仏して、阿弥陀仏におすがりしましょう」という言い方になります。それは一つの方便として、そういう言い方をしていると思うのですが、親鸞が自分自身として納得するためには、やはりここまで抽象度の高い議論をしないと、彼自身が納得できなかったのではないかと思います。
―― それは、法蔵神話を少し超えてしまっているところもありますよね。
(参考:賴住光子先生「【入門】日本仏教の名僧・名著~源信編...