●源信から法然、そして親鸞へ
―― それでは「日本仏教の名僧・名著」、次は親鸞のお話をうかがえればと思います。
親鸞は1173年~1262年の人ということですので、ちょうど明恵と同じ年にお生まれになって、明恵よりも長生きされたということですね(明恵:1173年~1232年)。
賴 住 そうですね。90歳までということで、当時としては非常に長命でいらっしゃいます。
―― 90歳とは本当に長命でいらっしゃったわけですね。親鸞は皆さんがよくご存じのように、法然のあとを継いで、布教を続けられたという方だと思います。法然のお話のときに、源信から法然にかけて変わった部分についてお話をいただきましたが、源信→法然→親鸞ということになると、どのように違ってくるのでしょうか。
賴住 源信と法然の間にかなり大きな違いがあることは、以前にお話ししたかと思うのですが、源信の場合、インド・中国の浄土教の流れを正統に継いでいかれて、「観想念仏」を中心とした「天台浄土教」というものを確立されたといわれています。
法然は比叡山に入って、天台浄土教をご自身で学びました。また、源信のことを生涯尊敬していらしたのですが、源信のいっている観想念仏を中心とした念仏信仰とは違う「専修念仏」を打ち立てます。「南無阿弥陀仏だけ唱えればいい。観想念仏は不必要である」という新しい念仏の教えを築き上げたという流れになります。
さらに親鸞は、もともと法然と同じように最初は比叡山に入って天台浄土教を勉強していたのが、あるとき山を下りて法然の教団に入り、法然の教えに帰依していきます。法然・親鸞は、教えとしては専修念仏、すなわち「南無阿弥陀仏と唱える」という教えになってくるかと思います。
●対面での教えに大切にした法然、「書き残す」ことを重視した親鸞
―― そうすると、法然と親鸞の違いというのは、もちろん同じ「専修念仏」といっておられるわけですが、それぞれの特徴としてはどういうことになりますでしょうか。
賴住 法然は念仏を学問的にも非常に究められた方なのですが、ご自身の資質だったのか、ご自身ではあまりお書きにならない方でした。
―― 文章を、ですか。ご本とか。
賴住 そうですね。文章を書くことにそこまで重きを置いていらっしゃらないということで、むしろ対面して教えを説きました。まさにお釈迦さまがそうだったわけですが、その人その人に教えを説いていくというところを非常に大切にされた方だと思います。
主著の『選択本願念仏集』なども、ご自身ではほとんど書いていません。最初のところをほんの少しご自身でお書きになっただけで、あとは口述筆記をさせています。ということで、あまり体系化して書き残していくところに重きを置かなかったのです。むしろ自分で境地を深め、また、それを人びとに説いていくというところを非常に大切にされていた方なのではないかと思います。
―― 乱暴な言い方かもしれませんが、理論化をするよりも、むしろ実践面で教えを説いていくことが主眼だったということでしょうか。
賴住 そうですね。もちろんその教えや実践の背後には、非常に広範な理論的な研究の成果があるのですが、そこを全部細かく整理して残していくというタイプの方ではなかったということになると思います。それに対して、親鸞は、極めて理論家であり体系家でもあって、「書き残す」ことを非常に重視された方です。
●親鸞の「浄土真宗」とは「法然の教え」のこと
賴住 ただ、親鸞自身の気持ちとしては、法然の教えとは違う教えを自分がつくっていくということはまったくなかったと考えられます。例えば、親鸞ご自身が「浄土真宗」という言葉を使われますけれども…。
―― 現代では、法然の宗派が「浄土宗」、親鸞のものが「浄土真宗」とわれわれは一般的に言っていますけれども…。
賴住 そう言われます。ところが、そうではないのですね。
―― そうではないのですか。
賴住 はい。親鸞のいう「浄土真宗」というのは宗派名ではなくて、「浄土に関する真実の教え」という意味で、具体的にいうと「法然の教え」を指しているのです。
それは、前後の文脈からそうとしか読めないのです。そういうことから見ても、親鸞は法然の教えを自分なりに一度受け止めて咀嚼し、それを体系的にきちんと残していこう、理論的に残していこうという方ではなかったかと思います。
特に主著である『教行信証』は、9割以上がお経や浄土教に関するさまざまな論からの引用だけで出来上がっています。それらの引用を通じて、親鸞は法然のいっている「専修念仏」というものがこれまでのお経、すなわ...