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“南無阿弥陀仏”と唱えて極楽浄土へ――法然の革命とは

死と宗教~教養としての「死の講義」(6)日本人の「死」と法然

橋爪大三郎
社会学者/東京工業大学名誉教授/大学院大学至善館教授
情報・テキスト
日本には、仏教より古くから伝わる死後の観念があった。死後は「黄泉の国」、あるいは山の上や海の彼方に行くと考えられていたが、そこに仏教が入ってきた。仏教は輪廻するから、死者の国は存在しない。しかし当時、仏教は難しい舶来の哲学だったので貴族たちのもので、農民たちとは無縁だった。そこで、汗水たらして働く農民たちのために立ち上がったのが法然である。(全7話中第6話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:08:49
収録日:2022/03/03
追加日:2022/05/16
タグ:
≪全文≫

●埋葬は世界共通で宗教より古く普遍的なもの


―― 橋爪先生、前回までは仏教の死生観についてお話をうかがってきましたが、日本にはお墓や先祖崇拝的なものがあり、単純に仏教だけではない要素もいろいろあるように思います。それは仏教の前からもともと日本にあったものかどうか、また仏教と日本人の死生観はどういう関係なのでしょうか。

橋爪 人間が死んだら、お葬式をする、埋葬する。これは世界共通で、宗教より古く、普遍的な慣習です。

 なぜ埋葬するかですが、埋葬の反対は自然放置で、その辺に放っておくことです。そうすると腐敗が進み、鳥や獣が来て、食べられたりします。

―― はい。

橋爪 そうしてバラバラになってしまう。野生の動物はみなそうやって死んでいくのですが、人間はその状態がしのびなくて、人間としての扱いをしたいと考えました。生きていたときは人間として扱ったのだから、死んだ体も自然に任せるのではなく、何か手をかけようと思ったのです。それが、土に埋めたり、火で焼いたり、特別な場所に置いたりといった、決まったやり方で処理することなのです。「自然に手を加える」のが、葬儀の根本的な意味です。

 さて、そのように死んだ人を埋葬したとして、死んだ人はいなくなるのか。それとも、どこかへ行くのか。ふつうは、どこかへ行くと考える場合が多い。死者のことをまだ覚えているので、あの人はどこへ行ったのだろう、というかたちで意識する。そうするとみんなで、あそこに行ったのではないか、という話になるわけです。


●輪廻する仏教――葬儀はするが、死者の国は存在しない


橋爪 日本ではどうだったかというと、「黄泉の国」に行くと考えました。黄泉の国は地面の下にあるらしく、死者が行くところです。他には、「山の上」のほうに行くという考え方もあるし、「海の彼方」に行くという考え方もあります。

 海の彼方とは、「常世(とこよ)」や「妣が国(ははがくに)」で、とにかく遠方へ行く。これがもともとの考え方だとすると、仏教とも儒教とも関係がないのです。

―― はい。

橋爪 そこに仏教が入ってきます。仏教は輪廻するから、葬儀はするのですが、死者の国は存在しません。

―― なるほど。また別の生命に生まれ変わるということですね。

橋爪 そうです。死んだら無機物になるから、物体としては何ものでもなくなる。その後、また生命になります。死んだ状態ではなく、また生命のある状態に戻るのです。それをぐるぐる繰り返しているから、死者が集まる場所みたいなものは存在しないのです。

―― そうすると輪廻の場合、霊魂はどういうイメージになるのですか。

橋爪 霊魂はない。

―― ないのですか。

橋爪 霊魂があると思うのは、気のせいです。

―― 気のせいになるわけですね、なるほど。

橋爪 とは言え、では何が輪廻するのか。この問題は、唯識論などいろいろと議論が重ねられましたが、結局わからないままです。


●農民たちに広まった法然の“南無阿弥陀仏”


橋爪 さて、日本に仏教が伝わってきた当初は、仏教は難しい舶来の哲学で、お金もかかるので、貴族やインテリが独占していました。貴族は貴族で堂塔伽藍を寄付したり法事をしたりに明け暮れ、インテリは出家してお寺に集まっていました。お寺の経費は、貴族がサポートするのです。言葉をかえて言うと、貴族をだましてお金を巻き上げるのです。

―― なるほど。

橋爪 ということで、セレブの連中が仏教を勝手にやっていた。

 当時は、貴族もお寺も荘園を持っていました。荘園には農民がいて、汗水たらして働いていたけれど、人間扱いされていませんでした。人口の大部分を占めていたそういう人びとは、仏教とは無縁に放置されていました。仏教徒になったのは貴族とインテリだけです。これが平安仏教です。

 さて、これでいいのかと、考える僧侶も出てきた。私が注目するのは法然です。 法然は、堂塔伽藍のようなどでかい建物を建てるのは無駄なことで、農民に苦労をかけるだけだから、なしがよい、と言いました。そして、こう続けました。

「だいたいインドには堂塔伽藍なんか存在しない。こんな日本みたいな社会では、農民が救われるのは無理である。日本は穢れた場所だ。浄土に行くしかない。“南無阿弥陀仏”と唱えるしかない。“南無阿弥陀仏”と唱えて、農民はみんな極楽浄土に行こう」

 つまり、「本当の仏教はこうでなければならない。平安仏教はインチキだ」という革命の宣言です。

―― はい。

橋爪 この教えがまたたく間に日本中の荘園に広まった。農民がみな念仏を唱えると、荘園のマネジャーも、オーナーの貴族や寺社も心穏やかではありません。農民があんなに団結してしまって、「年貢が高すぎる」などと文句をつけてきたらどうしよう。そうした団体交渉が...
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