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●真理を覚って仏になる
―― 橋爪先生、今回は仏教の死生観について、お話をお聞きしたいと思います。仏教の歴史は非常に長いので、最初にゴータマ・シッダールタ(釈尊)が説いた考えから日本に来る間に、いろいろな変化があったと思います。そもそもゴータマがどのように死を考えたのか、というあたりから教えていただけませんか。
橋爪 ゴータマはインド人で、中国のことも日本のことも全然知りませんでした。世界のことをインド風に考えた人で、世界の見方としてはバラモン教やヒンドゥー教とほぼ同じです。違うところは、ほんの少しです。
―― なるほど。前回のキリスト教の場合は、全知全能の神が人間の生き死にの全てを知っているということでしたが、ゴータマの場合は、また別の考えかたなのですね。
橋爪 一神教ではないわけですから、別の考え方です。
仏教の根本は真理を覚ることです。真理を覚ることを、仏になる(成仏する)といいます。これが目的です。成仏するためには真理を覚らなければいけない。真理を覚るためには真理がなければいけない。真理があると考えなければいけません。
では真理とは何か。この世界を貫いている法則です。世界を貫いている法則とは、因果法則です。
因果とは、原因と結果です。出来事と出来事と出来事がずっとつながり、決まったパターンで起こっていくことを、因果というのです。
―― キリスト教が、すべては神の意思によると考えていたのと随分違いますね。
●真理は生命より本質的
―― 仏教の場合、いろいろなものが因果関係で動いていくという認識になるわけですね。
橋爪 そうですね。それはそうなのですが、この因果関係がいつ始まったかというと、始まりがない。始まりがあれば、究極の原因があるわけです。例えばビッグバンみたいに。ある出来事があって、そこからいろんなことが起こってきたと言えば済むわけですが、インドの因果論には、始まりがありません。
それから、因果関係が続いて行ったその果ての、終わりもない。終わりがあれば、それが最終目的のようになりますが、その終わりがない。
―― そうすると、最後の審判のようなこともないわけですか。
橋爪 ええ。最後の審判もない。神もいない。天地創造もない。ただ出来事が規則的にずっと続いていくだけ、という考え方が因果法則で、これが真理です。
こういうことがわかるかどうか。人間にはそれがわかる。わかってわかりきったときに、その人を最高の知性と考え、それをブッダと呼びます。そこに価値があるという考え方です。
人間はそういうことを考えられるのですが、そのいっぽうで生まれて死ぬ生き物です。生き物と因果関係について、ちょっと考えてみましょう。
生き物は始まりがあって、終わりがある。死ねばおしまい。それに対して、因果関係は始まりがなくて、終わりがない。どちらが本質的か。
―― なるほど。世の中がいろいろな因と果で動くことはわかりますが、そこまで突き詰めて考えないと、本当の意味で因果関係がわかったことにはならないのですね。
橋爪 「生老病死」というように、生き物には始めと終わりがあります。しかし、これは本当の世界の姿ではなく、本当の世界のごく一部です。なぜなら始めと終わりがあるからです。
生物の始めより前には、その生物が存在するに至った原因があります。それでは、生物が命をなくしたら何もかもなくなるかというと、体がバラバラになっても、今の言い方でいうと炭素や窒素や酸素などに分解されて、世界中に散らばっていく。つまり、まだ続きがあるでしょう。
だから、生命の前には、生命に至る「生命ではない原因」としての出来事の連鎖がある。生命の後にも「生命ではない結果」という出来事の連鎖があると考えるのです。
人間に置き換えてみます。私がここにいるのはどうしてか。私が生まれたときから私がいるのではなく、その前にさまざまな出来事があったから私がいる、のです。そして、私が亡くなった後にも、さまざまな出来事があって、その続きがまだある。私には前世があって、来世があるということです。
前世、来世とはどういうことか、考えてみましょう。
私の前にいろいろな出来事の連鎖があるのは明らかです。そしてそれは、生物のかたちを取っていたかもしれないわけです。その生物が命を失って、次の命である私が生まれた。私が命を失って、生物でなくなったとしても、次の命が、別の生物のかたちで出てくる。これは、とても正しいと思いませんか。
―― そうですね。
橋爪 自然循環はそうなっている。生物学はそれを明らかにしているし、日々の暮らしでも、チキンの照り焼きを食べて、前の生物が生命を終わることで、私の生命が養われているわけではないですか。


