●日本の文化の特徴ともいえる「集団主義」と「権威勾配」
今回は心理的安全性について、もう少し深めていきたいと思います。日本の文化で、この概念は本当に根づくのかといったところについてです。
実は、この概念は欧米から来ています。面白いことに、心理的安全性はアメリカ人であるエドモンドソン氏がその重要性を強調しました。あれほど主張が当たり前の文化であるアメリカにおいて、心理的安全性が必要だといわれているのです。
では、日本にこの概念が本当に浸透していくことができるのだろうかという懸念について、私もいろいろな方々から問われることが多くなっています。
エドモンドソン氏は、「心理的安全性の概念は文化によらない」とも伝えていますが、本当にそうなのかという疑問もまだ残っているのではないかと思います。なぜなら、日本の文化の特徴的なところに心理的安全性に関係することが二つほどあると思うからです。
一つ目は「集団主義」、二つ目が「権威勾配」です。日本は非常に集団主義で、上意下達が強いと感じています。その中で心理的安全性を構築しようというのは、ややハードルが高いと感じられる方も多いのではないかと思います。
一つ目の集団主義ですが、われわれは日本の文化の中で生きていると、知らず知らずに「空気を読みなさい」、もしくは空気を読まないことに関して「水を差すな」と言われていることが多いのではないでしょうか。数年前に「KY」という言葉が出てきたように、やはり空気を読まないと人間扱いしてもらえないようなところが日本の文化には少しあるのかなと感じています。
●空気を読む――日本固有の文化と「抗空気罪」
このことは書籍にも書いていますが、山本七平氏の『「空気」の研究』の中に、以下のようにあります。
「『空気』とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の『超能力』かもしれない」
『「空気」の研究』の中で言及されているのは、戦艦大和の突撃です。なぜあれが起こってしまったかということについて、(山本氏は)「専門家ぞろいの海軍の首脳に、『作戦として形をなさない』ことが『明白な事実』であることを、強行させ、後になると、その最高責任者がなぜそれを行ったかを一言も説明できないような状態に落とし込んでしまうのだから」と書かれました。
きっとそのようなものが「空気」といわれているのだろうと思います。山本七平氏は「空気」に従わない方々を「抗空気罪」とも言っています。それぐらい日本の社会の中では、空気を読むことが大事にされているというところが見て取れると思います。
ただ、これはわれわれもあまり意識していないと思います。それで、グローバルな場面に入ったときに、「空気を読まない」ことに関する違和感を持つ方も多いのではないでしょうか。それはなぜかというと、われわれが比較的同質性の中で過ごしていることが多いからではないかと考えています。
海外へ行くと人種も宗教も多様で、(皆)いろいろな意味で多様性が当たり前の中で育ってきています。「自分と相手は、違うものである」という前提に立っていると思うのですが、日本の場合、「自分と相手は同じである」という前提に立っていると考えられています。そのため、何か物事を発言するときにも、「相手は当然自分と同じ意見を持っているだろう」という前提に立って発言をしていきます。そのような観点を持っていると、相手の発言が自分と異なると少々違和感を持ったりします。
一方、海外の場合は、「自分と相手は違う」前提に立っているので、相手の意見が違っていても受け入れやすいメンタリティがあるのかもしれません。われわれも、そのメンタリティをもう少し高めていかないと、マジョリティが「当たり前と思う部分」を相当程度押し付けがちになってしまうところがあるのではないかと思います。
●上司が「白」と言えば“黒”も白に――権威勾配の高い日本の実状
2点目は権威勾配です。研究によっては、「日本はそれほど権威勾配が高くない」といわれたりもしますが、実感値として権威勾配はそれなりに高いのではないかと思います。
最近の事件でいえば、少し前になりますが森友学園の改ざん問題や日本大学の「タックル」問題の話を聞いていても、上の方が言ったことに「ノー」と言えない風土が、日本の文化には非常に深く浸透しているように思います。日大の「タックル」問題について新聞の記事などを拝見していくと、部員たちは当時10分の練習メニューさえ自分たちで決められないといった記事もあり、非常に抑圧的な環境に置かれていたことが見て取れると思います。
私もかつて日本企業にいたことがあります。日本企業の中では比較的官僚主義的な会社に勤めていたの...