●人間の愚かさを寿ぐシェイクスピアの喜劇世界と人文主義思想
こんにちは。河合祥一郎です。第4回は、シェイクスピアの喜劇世界を取り上げることにしましょう。
悲劇世界が“To be OR not to be(あれかこれか)”の世界ならば、喜劇世界は“To be AND not to be(あれでもあり、これでもある)”の世界だといわれています。これは、前回ご紹介したオクシモロン(矛盾語法)の世界です。
“Oxymoron”というのはもともとギリシャ語で“Oxy-”は「賢い」、“moron”は「愚か」を表します。シェイクスピアには“wise fool(賢い道化)”が多数登場しますが、道化(fool)というのは愚か者という意味ですから、“wise fool”自体がオクシモロンです。喜劇の最高峰とされる『十二夜』ではヒロインのヴァイオラが“This fellow is wise enough to play the fool.(この人は道化を演じられるほど賢い)”と言います。
愚かであることが寿(ことほ)がれる世界、それがシェイクスピアの喜劇世界だといっていいでしょう。シェイクスピアには、人間とは愚かな存在であるという認識があります。
シェイクスピアが描きだす人間の本質というものは、当時のヨーロッパに広く浸透していた人文主義思想、ユマニスムと切り離して考えることはできません。人文主義者としては、『痴愚神礼讃』を著したエラスムス(1466年-1536年)や、『ユートピア』を書いたサー・トマス・モア(1478年-1535年)などが有名ですが、その思想はギリシャ・ローマ時代の文芸復興の機運と結びつき、人間性を肯定するものでした。
その人間性とは、常に正しい神とは違って、人間は過ちを犯すものであり、過ちを改めることに意義があるとする考え方に基づきます。
人間は愚かだということを認めて、自分の至らなさを自覚するところから始めようとするのが人文主義思想です。
この思想を遡れば、哲学の父祖であるソクラテスに至ります。ソクラテスが説いた「無知の知」という思想が人文主義の基礎を成しているといえます。無知の知とは何か。それはこのように説明されます。
ある日アテネの神託があって、ソクラテスは「アテネ中で一番の賢者はソクラテスである」と告げられたことにびっくりしてしまい、アテネには「賢者」といわれる人がたくさんいるにもかかわらず、なぜ自分が一番の賢者と言われたのかと不思議に思い、いろいろな賢者を訪ねていったところ、みな自分が賢者だと威張っていたことにびっくりします。そこでソクラテスはこう気がつきます――すなわち、ソクラテスは自分が愚かであることを知っているのに、「賢者」といわれる連中は自分が賢いと威張っている。世の中の賢者と言われる人たちよりも、自分の愚かさを自覚しているソクラテスのほうが、その分賢いのかもしれないと。
無知の知とは、無知、つまり自分の愚かさや未熟さを知っている、自覚していることを指します。自分の欠点や至らなさを自覚しようという人は、その欠点を克服することで人間として成長することができます。これに対して、偉そうな態度をとる人は、進歩の見込みはないということになります。
シェイクスピア自身、はっきりとこの「無知の知」を認識して、喜劇『十二夜』のなかで次のように道化フェステに言わせています。
《For what says Quinapalus? “Better a witty fool, than a foolish wit.”(だって、クイナパラスはなんて言っている? 「アホな知恵者たるより、知恵ある阿呆たれ。」)》
少々分かりづらいかもしれませんね。『お気に召すまま』の道化タッチストーンの言葉のほうが分かりやすいでしょう。
《The fool doth think he is wise, but the wise man knows himself to be a fool.(阿呆は己を賢いと思うが、賢者は己が阿呆と知っている)》
シェイクスピアの芝居には道化が多く登場しますが、他の登場人物たちに「あんたはバカだよ」と教えてやるのがその役割です。教えてもらった人は怒ったりせず、自分の愚かさを認めなければなりません。
人は過(あやま)つものであり、間違えるのは人間として当然なのだという発想です。現代の教育に最も必要なのはこの発想でしょう。 間違いを禁じたり、封じ込めたりするのではなく、間違ったときにどうしたらいいかを学ぶようにすべきなのです。
人間は神ではないのだから、事故は起こるものなのです。事故を起こすな、失敗するな、間違えるなと威圧的な教育をするのではなく、どんな間違いが起こり得るのか考えてお...