●グラウコンとアデイマントスによる挑戦
プラトン『ポリテイア(国家)』の「正義とは何か」という問いがどのように起こったかということについて、お話ししていきます。
第1巻の議論では、3人の対話相手と一緒にソクラテスが「正義とは何か」ということを議論して、その3人のそれぞれの考えを論駁して終わってしまいました。つまり、「分からないね」ということで終わったのですが、それはいわば序曲にすぎないといわれます。ここから本曲が始まるということです。
場面が一転するのは、ソクラテスと一緒に歩いてきて、それまで黙っていたグラウコンという若者がソクラテスに向かってチャレンジするところからです。彼(グラウコン)は、「今の議論では納得できない。正義は不正に勝っているのだということを、本当に説得してもらいたい」と言います。そんな中途半端な議論では駄目だと挑んでくるわけです。
これは非常に面白くて、グラウコンと次に出てくるアデイマントス(プラトンの兄)は、いつもソクラテスと一緒にいる仲間です。だから、だいたいソクラテスと同じような考えを持っているはずで、トラシュマコスのような敵とは違います。ところが、グラウコンはあえてトラシュマコスの議論を引き受けるという役割を買って出、そういうふりをして、強い議論をぶつけてきます。つまり、グラウコンはトラシュマコスとは違う考えを持っていたはずなのに、あえてそれだけ強力な議論をぶつけていくのです。
これはプラトンという人が意識していたことで、もしかしたらプラトン自身がソクラテスに向かってチャレンジをしているのではないか。そうも想像されます。そのチャレンジが大きければ大きいほど、最後にその説得力が当然増すわけですから。
そういうことで、第2巻の前半部は、グラウコンとアデイマントスの二人のチャレンジで幕を開けます。とりわけグラウコンが提示する3つの議論は非常に強力かつインパクトの強いもので、それが今日に至るまで倫理学の大きな問題を引き起こしているということになります。
●「善いもの」の3つの区分と正義
グラウコンは最初に、「善いもの」を3つに区分することを提案します。
1つ目は、それ自体としては善いけれど結果は伴わないもの。つまり、今は楽しいけれど、後には別に何も善くないというものがある。今は楽しい(悦びのことですが)、しかしそれで終わりで、結果として別に善いことはない、ということです。
2つ目は、それ自体として善く、かつ結果としても善いもの、例えば、知恵や健康です。健康の状態は楽しいけれども、後々にも善いわけで、それ自体としても、結果としても善いものです。
そして3つ目に、それ自体としては善くないけれども、結果は善いものがある。「えっ?」と思うかもしれませんが、例えば体操をする、あるいは手術を受けるというのはどうでしょうか。まさか手術自体を好きな人はいませんよね。ですから、それ自体は善くないけれど、それをすることによって結果は善くなるというものです。
そういう3種類があるとすると、いったい正義はどれに属するのですか、というのがグラウコンの最初の問いかけです。
ソクラテスは、今言った中では第2のものだと考えます。「正義というのはそれ自体としても善いものだし、結果としても善いことがある。それはもちろん、正義は完璧だからだ」と考えるのですが、トラシュマコスや一般の人々は3番目だと考えている節がある。つまり、手術を受けるのはみんな嫌なのだが、手術を受けないともっとひどくなるから、結果だけを求めてすること。それが正義なのではないか、と。
そこで、今の3分類でいうと2番目か3番目かというところで、ソクラテスとその他の人たちの議論が分かれていく。そうだとすると、どこで判定すればいいか。それ自体として善いか悪いかというところを確かめればいいわけです。つまり、両方とも結果としては正義に何かメリットがあることは分かっている。ただし、どこにメリットがあるかということを確認しなくてはいけないのです。
●グラウコンによる強力な議論「正義の起源」としての「社会契約説」
このようにグラウコンはなかなかシャープで、非常に整然とした議論をしてくれます。それを踏まえた上でグラウコンは3つの議論を出します。正義はそれ自体としてやりたいものではないということを、ソクラテスに向けてチャレンジするわけです。グラウコン自身が本当に信じていたかどうかは分かりませんが、これは非常に強力な議論です。
1つ目は、「正義の起源」です。正義はどうやってできたかについての一つの考え方として、「社会契約説」があります。正義はもともとあったものではなく、人々がみんなで「こうしよう」と...