●大きいほうから小さいほうを見る――類比による議論
『ポリテイア』第2巻の前半では、グラウコンとアデイマントスによる正義へのチャレンジが行われました。ソクラテスはそれを引き受け、「正義はそれ自体として行うことが善いことだ」、もっというと「正義を行っている人は幸せなのだ」ということを証明する議論に取りかかります。それが、第2巻の後半から始まる長い議論になります。
いきなり答えを言うことができないというので、これから見れば分かると思いますが、非常に大仕掛けの議論が始まります。ここから別の対話篇が始まるのではないかというほどの大仕掛けです。そこでは政治学、倫理学、魂論など、全ての議論が必要になってくる。つまり全哲学をかけて、この問いに答えていくことになるのです。「正義とは何か」、それは私たちにとって簡単に答えられる問題ではなく、いわば哲学全体のキーになるような問題だということが分かってきます。
さて、その仕掛けの最初に、ソクラテスはやや唐突に「大きな文字と小さな文字」という話をします。例えば、正義の「正」を大きく書くのと小さく書くのでは、どちらが見やすいかというと、大きい文字のほうが「正はこういう画数だね」と見やすいですよね。特に視力の弱い人、遠くから見ている人は、大きな文字を見たほうがいい。でも、大きくても小さくても、どちらも「正」という文字に変わりはない。だから、大きいほうから見て、小さいほうと比べていけばいいのではないかというのが、これから始まる議論の大枠です。
大きな「正」の文字に当たるのはポリスで、小さな「正」の文字のほうは一人ひとりの人、もっといえば「魂」というもので、それを見ようということになります。
私たちが「正」を見、「正義」や「正しい」ことはどこにあるかを見ようとする場合、その1つの場面は当然ながら社会であり、「国」と呼んでもいいでしょう。社会全体を視野に入れ、その社会が正しい社会になっているかどうかということは、規模が大きいので見やすいかもしれません。
しかし、ひとりの人の魂や心、生き方が正しいかどうかというのは、それなりに見るのは難しいかもしれません。だから、大きいほうを使って、小さいほうを見ていこうと。これは「類比」と呼びますが、アナロジーとしてこの2つを比べていきましょうというのが、これから始まる議論です。
●「言論によるポリス建設」の開始と「植民」
そのために、まずしばらくは大きな文字のほうを一生懸命書くことになります。どうやって書くかというと、「今から言葉でポリスをつくっていこうではないか」ということで、壮大なイマジネーションが炸裂します。人間の社会はどのようにできてきたのかということを、今から議論でつくっていこうというわけです。
私たちはその歴史を見ることはできないので、社会がどうできたかを検証することはもちろんできません。しかし理論上、このように考えると社会の仕組みが分かるのではないかということを、ソクラテスがやっていく形で議論が始まります。
この「言論によるポリス建設」とはどういうことかというと、ソクラテスと対話相手であるグラウコン、アデイマントスの3人で、どういうポリスにしようかと言いながらつくっていくのです。言葉でポリス建設というと、単に想像力を用いるだけに思えますが、「どういうポリスがいいか」と相談し合うのが面白いところです。
このようなプランニングが、ギリシアでは時々行われていました。それが「植民」と呼ばれているものです。新たな土地に新たな人々を住まわせる、新たなポリスをつくろうではないか。そういうときには、こういう法律をつくろうと。こういうことは、プラトンの時代、よく起こっていることです。つまり、ここで行われる「言論によるポリスの制作(建設)」は決して単なる空想ではなく、実現も可能であるかのような話になっているのです。
そこでポリスをつくっている人は、当然そのポリスの統治者になると見込まれるので、いわばソクラテスとグラウコン、アデイマントスの3人は、これからポリスのトップに立っていくというつもりでしゃべっていることになります。
●なぜ私たちは共同体で生きているのか
これも一種の壮大な思考実験だといっていいと思いますが、社会学や社会哲学の中には込められないところがあって、もっと根本的なものです。なぜかというと、人間の本性がどのようにこのポリスをつくっていくかということを議論するため、「人間論」というべき、人間とはどういうものかを見ていくことになるからです。
ポリスはギリシアの都市国家のような、1万人ぐらいの小規模な共同体です。それが何なのかというと、「共同体」です。では、人間の共同体はなぜ必要なのか。なぜ私たちは共同体で生きてい...