●ポリスの守護者を育てるための2つの教育論
言論によるポリスの制作・建設を進めていく中で、ポリス全体を配慮する人が必要である、それは軍人であり、守護者になるべき人だ、というところに話が進みました。
では、彼らはどういう人であるべきか。当然、さまざまな資質が必要です。人の上に立ち、全体を配慮しなくてはいけないのですから、知恵があり、勇気があるということになります。そこで重要になるのは教育だということで、教育論が始まります。
教育は、ギリシア語では「パイデイア(paideia)」と呼ばれますが、プラトンの『ポリテイア』という本は西洋哲学史上、あるいは西洋学問史上、最大の教育論の本です。今でも教育学の中の古典になっています。
パイデイア論は、本書では2カ所にわたって語られます。一つは第2巻から第3巻のあたりで、私は「初等教育論」と呼んでいますが、日本でいえば小学校ぐらいの子どもたちを対象とするものです。さらに、イデア論が出てきた後の第7巻にもう一度教育論が出てきます。こちらは、一応「高等教育論」と呼びますが、国のトップになるよう選抜された人の受ける教育であり、哲学教育です。現在でいうと、大学教育に当たると考えていただけばいいでしょう。これら2段階の教育が組み合わさってポリスの教育が語られるので、今回からそれらの2ヵ所を並べてご紹介していきたいと思います。
これは軍人や守護者のための教育として語られていて、その選抜に関わりますが、一部のエリートだけの教育と考える必要はないと私は思っています。なぜかというと、理想的なポリスの場合は、例えば農民であれ職人であれ、一定程度教育に与っていないと、うまく成り立たないからです。彼らが全く教育を受けていないのではポリスは成立しない。とりわけ最初の初等教育は全員が受けていると想定しても構わないと考えています。
この2段階の教育論は、驚くべきことに現代までつながっています。もっというと、現在の日本に直結しています。このように、論証なしに断定してしまうと、皆さんはびっくりされるかもしれません。
現在の日本の小学校に、なぜ音楽と体育という科目があるのでしょう。音楽の授業で、ピアノに合わせてみんなで歌うことに、何かいいことがあるのか。もっといえば、体育は何のためにあるのか。体育という科目が西洋から明治の日本に導入された時には、猛反対が起こりました。軍事教練なら意味があるが、体育などをしても何の意味もないではないかというのです。音楽についても同様です。その時、プラトンの『ポリテイア』という本が典拠になり、「そういうものなのだ」と説得したわけです。
さて、小学校、中学校、高校で、なぜ算数や数学を学ぶのか。この答えは後半に出てきます。私たちは、役に立たない、計算機で済むことになぜ取り組むのか。これは知性を涵養するためです。プラトンがこの本で提案したことが、2000年間を通じて西洋の大学で受け継がれ、学校教育で受け継がれてきました。それが明治に日本に入ってきて、私たちは今みんなが算数や数学を学んでいるわけです。 そういう流れをちょっと意識してお話を聞いていただければと思います。
●初等教育の柱は体育と学芸、学芸の「フィクション」論議から文芸論へ
初等教育論は第2巻の後半と第3巻にわたって行われ、2つの柱によってなされます。体育と学芸と訳しましたが、学芸は「ムーシケー(mousikē)」という言葉です。ムーシケーというのは「ムーサの技」という単語で、ミュージックも入ります。ですが、ここでは単なる楽器演奏ということではなく、言葉を伴う、すなわち詩を歌う、朗誦することが「ムーシケー」と呼ばれました。「ギュムナスティケー(gymnastikē)」という体育と、「ムーシケー」という学芸という2つが、初等教育の柱になります。
子どもたちは、どういう教育を受けるべきなのか。守護者になるような素質を培うためには、ムーシケーがカギになるでしょう。では、ムーシケーはどうすればできるのかというと、「言論」によってなされる。ここは「音楽」と訳すとまずいところです。
言論には、真実の言論と嘘の言論があります。嘘というと過激ですが、フィクションということです。子どもの教育にはフィクションのほうでいい、むしろフィクションがふさわしいのだという議論になります。
フィクションとはどういうものかというと、ギリシアではホメロスやヘシオドスの詩です。ホメロスの書いた『イーリアス』や『オデュッセイア』、あるいはヘシオドスの書いた『神統記』や『仕事と日』といったものを子どもたちは聞いて、そこから何かを学んでいく。そういう教育が、念頭に置かれています。
つまり、子どもたちは詩などを勉強することによって「徳」を目指し、物語に出てくるような立...