●第3の大波としての「哲人政治」
理想のポリスをめぐっては、3つの大波があります。第1の大波と第2の大波を無事切り抜けたソクラテスは、第3の大波に向かいます。第3波は一番大きい波になります。
グラウコンはこのように問います。「いったい今後ポリテイア(国制)というのは本当に可能なのでしょうか。絵に描いた餅ではないですか。可能だとしたら、どうしたらいいのかということを教えてください」。
今までは「これは素晴らしい社会だ」「これなら完璧だ」ということを言葉の上でけっこう自由勝手に言ってきたといえますが、ソクラテスはここで「この話は実現可能でなかったら意味がないでしょう」という問いに直面します。
ソクラテスは、「できるだけ正義に近い、正しいモデルを描いてきたのだから、それで許してくれよ。画家だって、本当に存在しなくても、すごい美人や格好のいいものを描くではないか」と言うのですが、なかなかそれでは許してもらえません。
そこでソクラテスは渋々と「それなら、できるだけ近い仕方でそれを実現する、おそらく唯一の、しかも最小限の変革をするアイデアはある」と言って、第3の大波に当たる提案を話します。それが有名な「哲人統治」というものです。哲人は哲学者ですから、哲学者がこの世界を統治するということです。
●哲学と政治を両立する「哲人政治」という理想
彼はこう言います。「哲学者がポリスで支配者になるか、現在の支配者が真正に哲学をするようにならなければ、ポリスにとっても人間にとっても悪が止むことはない」。つまり、ちゃんと哲学者という資格を名乗れる人が守護者になるか、あるいは現在、守護者の人が本当の意味で哲学者になるか、これら二つが同じことを意味するかは実は分かりませんが、「その2つのどちらかが成り立たない限り、人間にとって不幸は終わらない」と言うのです。
幸福と不幸というのはずっと今までの議論にありました。「正義というものは、幸福をもたらすのか」を考える場面で、この提案が出てきたわけです。
さて、哲学者と政治はどういう関係にあるかというと、今もそうだと思いますが、水と油のような関係です。哲学は真理を探究する。この世界(現世)については、あまり細かいことを気にせず、とにかく真理を純粋に探究したい。世俗的なことは気にしない。それに対して、政治は実際の駆け引きです。リアルな物事をいろいろと実際にやっていかなければならないので、哲学的なきれいごとを言っていては済まされない。
通常この2つ、哲学者になるか政治家になるかというのは、いわば正反対の素質の伸ばし方です。しかし、そのままではいけない。この2つが合体、あるいは近づけないといけない。哲学者は哲学者、政治家は政治家というように分かれたままでは、人類にとっての不幸は終わらない。これが「哲人政治」という提案です。
これは、『ポリテイア』第5巻でいきなり出てきた考えのように見えますが、プラトンとしてはもう少し前から温めていた考えのようです。『第七書簡』という彼の自伝的な著作の中では、「若い頃の政治的な挫折を経て、自分はこういう考えを抱くようになった」というように言っているので、プラトンがずっと考えていた政治的な1つの理想像だといえると思います。
●イデア=真理を観ることを求め続けている哲学者
それでは、哲学者とは何なのか。ここで疑問が2つあります。1つ目は、哲学者とはいったいどういう者なのか。2つ目は、哲学者はそれにふさわしいのか。この2つの疑問です。
1つ目の疑問。私たちが哲学者と呼んでいるのは何かということに対して、プラトンは「イデア論」によって答えていきます。これは少々テクニカルな議論なので、ここではお話はしません。お読みいただくとある程度分かるかもしれませんが、いろいろ議論の難しいところです。
一言でいってしまうと、哲学者というのは「知を愛し求める者」という意味の単語で「フィロソフォス」、つまり「真理を観る」ことを求め続けている人ということになります。その真理とは何かというと、プラトンが「イデア」と呼んでいるものが真理に当たるのだということを証明していく議論に入ります。
ソクラテスが、「それが分からない」という想定の相手(実際にはグラウコンですが)に向かって、「イデアというものは本当にあるのだ。それを観なくてはいけない」ということを説得していくのが、ここでなされるイデア論です。
通常の私たちはこの世界を見て、正しいものもあれば不正なものもあるし、美しいものもあれば醜いものもあり、いろいろなものがあるという(認識のもとに)この世界を生きています。しかし、正しさそのものや美しさそのものを見る能力はない。だから、それは哲学者とはいえない。
むしろ私たち...