●ソクラテスの弁明は通常とは逆の効果を裁判員に与えた
ソクラテスが、自分の無実というか、少なくとも告発にあったようなことはやっていないということを、弁明する演説が続いているわけですが、今までお話ししてきたように、ソクラテスが言えば言うほど、どんどん逆効果になっています。人々、つまり裁判員の人たちが騒ぎ出します。ソクラテスは時々、この本の中で、「皆さん、騒がないでください。私の言うことを聞いてください」と言っています。
当時の裁判員ももちろん、自覚を持って裁判にやってきますし、死刑の判決は重いものですので、通常から不真面目に裁判に出ていると思うのは誤解です。ですが、この裁判に限っては、ソクラテスがあまりにも通常の裁判と違うことを言うために、人々が怒り出したり、過剰な反応が起こってきている情景が、プラトンの文学的手法も込みで読み取れるのです。
通常の裁判はどういうものかというと、だいたい被告の方は、どうか皆さん、私を許してください、誤解はあるかもしれませんとか、あるいは私には子どももいます、家族もいますとか、私はこれだけポリスに貢献してきました、というようなことを言って、許しを乞うというのが、普通訴えられた側がやっていることらしいのです。
ソクラテスは全く反対です。最初の「皆さん」というところから始まったものを貫いてしまっています。それによって、最終的に最初の票決で有罪という結論が出てしまうわけです。500人ないし501人(いつも500ないし501人といっているのは制度が変わる時期で正確には分からないためですが)、彼らの過半数ということで、ソクラテスはわずか数十票差で有罪という判決を受けてしまいます。
これも微妙なところだと思いますが、やはり普通に考えて神を敬わないとか若者を堕落させるなどという曖昧模糊とした、言いがかりに近いような罪で人を裁くということに対して、健全な判決であれば、それは無理でしょうということになると思いますが、ある意味ではソクラテスが言っている通りかもしれません。しかし、通常から哲学に対して向けられてきた、そういった誤解や憎悪というものがソクラテス裁判の中で出てしまったのかもしれないと思います。
いずれにしても、それが1回目の判決で、その背景には先の回でお話ししたように政治的な背景もありますし、ソクラテスはそれについても触れては...