●無知と不知とは異なった意味を持つ
前回、ソクラテスが、神であるアポロンからのミッションとして何を哲学として遂行して、それがこの裁判にどのようにつながったかについての一番の骨組みをお伝えしました。そこで出てきた、ソクラテスが知らないということを自覚したということがソクラテス哲学の一番の基盤になりますので、そこについて補足的に再度、ご説明しようと思います。
これを私は「不知の自覚」と呼んでいます。これは翻訳語の問題もあり、ギリシャ語の翻訳として日本語をどのように使うかということもあるのですが、不知とは「知らない」という意味です。無知というもう一つの単語と、私は実は訳し分けています。
プラトンが二つのギリシャ語を使っており、無知のほうは、知らないのに知っていると思っている状態です。プラトンがいう、知らないのに「僕は知っているんだ」と勘違いしてしまっている状態のことを指す単語を、私は無知と訳しています。
それに対して、ソクラテスのように、とにかくただ知らないということをいう場合に、無知と区別して不知という日本語を当てていますので、私の翻訳、あるいは私の話を聞いていただく方は、その二つの単語を使い分けている、とご理解ください。翻訳によっては必ずしも皆がそのように訳し分けているわけではないですし、通常は混同されてしまっている概念です。
●「無知の知」は誤ったソクラテス理解である
ソクラテスは、それこそが自分のやった哲学の立場なのだということを強調するわけですが、これをどう理解すれば良いかというときに、日本人に親しまれてきた「無知の知」という標語を、少し批判的にご紹介すると、分かりやすいかと思います。
皆さんもおそらく高校の教科書や、いろいろなところで、ソクラテスといえば「無知の知」と書いてあるものを読まれたと思います。しかし、ソクラテスはそんなことを言っているわけではなく、むしろそれは重要な誤解であるとご説明して、少しでも理解に近づいていただけたらと思います。
「無知の知」というのは非常に聞き心地が良くて、かっこいいし、「ソクラテスといえば…」というようになっているので、世間一般に流布していますが、私は3つの根拠から、それはソクラテスの哲学ではない、と議論してきました。
一つ目は文献学的な議論といいますか、実際にソクラテスはそんなこ...