●視聴者のツッコミは「縦の対話」
津崎 われわれのように一応、哲学を学んで教える職業を選んでいる――その職業って本当にあるかどうか分からないけれども――そういう人間であっても、やっぱり「本当にそんなことできるかな」と思うこと、たくさんあるじゃない? 「シモーヌ・ヴェイユみたいに生きられるかな」とかね。
第6話でさっちゃんも、「カントだって本当にそんなことできたかどうか分からない」と言ったように、哲学をやっている人間だって、自分でできないようなことがつい口から出てしまう瞬間ってあるじゃない?
つまり、哲学者が語っているというよりは、ドイツ語でいったら「ガイスト」(精神)、ある種のクラウドだよね。思想のクラウドがあって、そこから哲学者を「いたこ」のように、メディアとして語らせているようなところがあって。
哲学者だって実践できないような思想が、しかしその哲学者の口から出てくるとして、それをやったり、あるいは学生とか、あるいは視聴者の人と共有することって、いったいどういうところに意味があると思う? まあ、一言で言えば、「幸せになるために」とかになるのかもしれないけれども。洗脳とか、第4話の父権的国家とか、学校教育というテーマに少し戻りつつ。
五十嵐 例えば、今回の学校の話とか、いろんな話を視聴者の方がお聞きになって、「なるほど」と思った人もいれば、「いや、絶対おかしいでしょ」となった人もいると思うんだけど、私は「絶対おかしいでしょ」と思った人がいることはすごくいいなと思う。
どうしてかというと、今、わたしとマイクと二人で話しているんだけど、その向こう側に多分視聴者の人がいらっしゃる。こうやって今、ほら、「横の対話」をしているじゃない。それが、視聴者の方のなかでは「縦の対話」というか、自分のなかの対話がきているんじゃないかなと思って。
津崎 ツッコミとかね。
五十嵐 そう。
津崎 わたしたちの話を聞きながら、「ああ」と腑に落ちたり。
五十嵐 逆に「あいつ、なんだ」というような。
津崎 「何、言ってるんだ」とツッコんだり。
●「モヤモヤ」を立ち上がらせるのが哲学の仕事
五十嵐 そう。でね、もう怒るみたいなのもあって。でもね、怒ったとき、自分のなかに「腹が立つよね、本当に」という気持ちがあるけど、「でも、本当にそうなのかな。もしかしたら間違っているんじゃないかな」とか、「いや、でも、そういえば、こういうことがあった」とか、自分自身のなかに「縦に降りる」対話というものが生まれていて。
それは、多分わたしたちには聞こえてこないし、その人が他の人に言うかどうかも分からないんだけど、ここでの横の対話じゃない縦の対話は終わることなく、普通「モヤモヤ」というかたちで続いていく。いろんなところで、そのモヤモヤが立ち上がって続いていくことが、一つの哲学の仕事なのかなと。
だって、モヤモヤというのは動くということでしょ。今までは断固として、「いや、これはもうこうなんだ。人生の成功というのは、いい大学に入って、いい会社に入って」って思っていた。
津崎 それで「幸せ」になれるんだ、と。
五十嵐 そう思っていた。「だから、頑張ればいいんだ」と思っていて、自分の子どもとか周りの人にも「頑張れ、頑張れ」と言っていた人たちがぐらついてくるわけでしょ。腹が立つということを通して、あるいは「あれ、本当によかったのかな」と思うことを通して。
「ぐらつかせる」というと、強い言い方なんだけど、「ぐらついちゃう」という状況を招いたり起こしたりする。例えば、その人は「やっぱり人間はお肉だ」「絶対にお肉いっぱい食べないといけないんだ」と思っている。血圧が高いんだけど「お肉だ」と思っている人に、「もしかしたら、お肉じゃないかもしれない」という疑いをもってもらうだけでもいいのかも。
●既成概念をぐらつかせる存在と「ハチ」の哲学者
津崎 今日は動物、ライオンが出てきて、豚が出てきて、もう一つ、動物を付け加えるならば、ハチか。まあ、今日、(服装を指して)黄色と黒でハチっぽいんだけど。
五十嵐 (笑)黄色とシマシマでハチ。
津崎 ハチないしはアブに自らを模した古代の哲学者、知っている?
五十嵐 知らない。
津崎 ソクラテス。
五十嵐 あっ、だから殺されちゃったのね、あの人。
津崎 そう。どうして「だから」なのかは、視聴者の皆さんには跳躍があるかと思うので、今、解説します。ハチだから殺されたんだけど、あるところでソクラテスは自分のことをこういうふうに振り返っています。
ちなみに、ソクラテスはものを書かなかったから、弟子のプラトンに「語らせている」というのも変だけど、プラトン...