●「おめでたい人」になることとエピクテトス哲学
津崎 じゃあ、不幸だというふうに感じている人というのは、実は自分が、言葉の本当の意味で「恵まれている」ということに気づいていないということ?
五十嵐 うん。恵まれていると思うのも恵まれていないと思うのも、自分で勝手に決めることだから。見方によっては本当に全然恵まれていないけど、見方によっては全部恵まれているみたいに思うこともある。
よく「おめでたい人」と言うじゃないですか。「おめでたい」というのは、ちょっと頭がおめでたい、みたいなことを言うと思うんだけど、自分で「わたしって、ほんと幸せな人だわ」と思って「おめでたい人」になっているというか。それで幸せなのかなと。
津崎 デカルトが『方法序説』を1637年に匿名で書いたんだけど、その本の第3部のなかで「変えるべきは」というふうに言っている。「世界の秩序とか運命ではなくて、自分の欲望のほうを変えなきゃいけない」と。欲望というよりも、もうちょっと広く取るなら「思い」だよね。自分の思いのほうを変えなければいけないと言っている。しかも、生き方の問題として「それが道徳だ」というふうに言っている。
哲学史的な話をすると、実はこれはストア派のエピクテトスという哲学者の影響なんじゃないかと言われています。エピクテトスは、「自分の力でどうこうすることができるもの」と「自分の力でどうこうすることができないもの」を分けている。
「自分の力でどうこうできないもの」というのは、世界の秩序とか運命とか、さっちゃんのおばあちゃんの話で言うと、そういう(病気という)身体状態にあることもそこには含まれる。それは変えられないわけじゃない? だけれども、自分の思いのほうは変えられる。なぜかというと、自分の思いというのは、自分の力でどうこうすることができるものだから。
エピクテトスだったらそういうふうに言うだろうし、エピクテトスという古代ローマ期のギリシア人で、「ストア派」と呼ばれる哲学者の影響があると言われているデカルトだって、多分そういうふうに考えると思う。
●「幸せな時間」を共有することの幸せ
津崎 でもさ、それって、やっぱり「言うは易し」なんじゃないかな。
五十嵐 でも、試してみると、すごい結構簡単で……。
津崎 例えば、どんなときに試す?
五十嵐 いろんなときに試すんだけど。わたしはあんまり自分に厳しくないから、例えば、祖母の例で言うと、祖母はすごいおしゃれな人だった。でも、自分で髪の毛をとかしたりとかできなくなっちゃって、わたしが行って髪の毛をとかしてあげると、「ああ、ほんと気持ちいいわ」と言うのね。で、祖母はそれで幸せになっている。それで、祖母が幸せになっているのを見てわたしも幸せになるという循環。だから、髪の毛をとかしてもらっただけで幸せになるんだなと。
例えば昨夜、ここ(筑波大学)の研究室で院生の人たちと一緒にゼミをしていて、そうしたら外がすごい暗くなってきて、外にいい感じにマンションの光がついていて。「わっ」て思って電気を消して、そこのストーブの前でみんなで椅子を並べて。そうしたら院生の人がね、すごく素敵な音楽を流してくれた。
津崎 ムードのある音楽ですね。
五十嵐 そうそう。ジャクリーヌ・デュ・プレが演奏した『シチリアーノ』という音楽。
津崎 チェリストのね。さっちゃんのおばあちゃんじゃないけど、彼女は、筋肉の病気〔正確には多発性硬化症という難病〕で40代ぐらいで亡くなったんだよね、たしか。
五十嵐 そうそう。
津崎 それで?
五十嵐 それで、黙ってみんなでずっと外を見ていたら、もうすごいなんか、みんな幸せになって、みんな沈黙……みたいな。みんな、すごいシーンとしてしまって。
津崎 どうしてそれで幸せになったんだろう、みんな。
五十嵐 ほんとに仲良しの人たちで、暗くして、きれいな外を見て、火があって、みんなで周りにくっついて座って、黙っている。その幸せな時間を共有しているというのが、すごく幸せ。
●「共感」を重視した哲学者ヒューム
津崎 共有。何を共有? 時間を共有している?
五十嵐 状況?
津崎 状況。あるいは、思い?
五十嵐 思いも入っている。
津崎 入っている?
五十嵐 だって、客観的に何があるかというと何もなくて、電気もないし、まあストーブはあるけど、何か食べ物があるわけじゃないし、べつにそんなすごいお話をするわけでもないし。ただ黙ってみんなボー...