●幸福を選ぶのは自分。でも、それはいつの?
津崎 そこで、思うのは、(良心に従う)その道は自分でなきゃ進めない。選ぶのもそうだし、戻るのもそうだし、進むのも自分なわけでしょ。そうすると、さっきのカントの「幸福は個人的なものだ」というところに戻るけど、カントは「定言命法」ということを言うじゃない?
「自分が規則だと思っているものが全員に当てはまるときだけ、その規則に従って自分は何かをすべきである」とか、「規則は普遍的に適用されなければ規則の名に値しない」とかね。それは、それぞれが分かち与えられている理性から例外なく出てくるものである。
カントは、幸福とはそういうものじゃないと言っている。つまり、道徳というのは理性の理想形だけれども、「幸福というのは想像力の理想である」と。理性ではなくて、つまり万人に当てはまるものではなくて、人それぞれがもっている想像力から作り出される理想が幸福であるから、幸福というのは各々の想像力によって規定されるもので、「わたしはこれが幸福だ」というふうに想像するんだと。
五十嵐 想像?
津崎 そのように、カントは『道徳形而上学の基礎づけ』のなかで言っている。となってくると、「あの道を行くのも、この道を行くのも、そこから引き返すのも、自分である」。個人=わたしが最終的には「幸せというのは何か」というのを決めなきゃいけない。
五十嵐 決めなきゃいけないのかな。カントも「この道か、あの道か」というよりも、「この道を行くと、その先に」みたいな感じがするんだけど、でもエピクロスだと、多分「この道を行けば幸せになる」と想像することではなくて、やっぱり「今」。
津崎 「今」ね。
五十嵐 そう。だから、やってみるということは、「今、つらい」からそう思わなくてもすむようにするとか、「今、心地よい」と思えるようにするために何ができるのかな、というのを試してみることだと思うんだけど、それが幸せに「なる」ということだと、それはどうなのかな。
●ルソーの「わたしに満たされる瞬間」と「○○になる」
津崎 ルソーは、『孤独な散歩者の夢想』っていう本のなかで、幸福というのを「現在」というところに閉じ込めている。持続も継続もない。だから過去もないし未来もない。幸福な状況というのは、喜びもない。苦しみもなくて、欲望もない。だって未来がないんだから。と同時に不安もない。欲望がなかったら不安も生じない。「○○したい」と思うから、「できるかな、どうかな」と不安が出てくる。
幸福な状況というのは、過去からの継続もないし、将来への持続もないし、喜びもないし、その反対の感情である苦しみもないし、欲望も不安もなくて、ただ「わたしがここにある」という存在感だけ。それを彼は「孤独」と言っているんだけど。持続も継続もないから、過去からの思いも引きずっていないし、「○○になる」という欲望も義務も命令もない。今、この瞬間に存在しているという、このわたしの存在感にわたしが十分に満たされている瞬間が幸福だとルソーは言っている。
五十嵐 ルソーからちょっと離れるかもしれないんだけど、今、聞いていて思ったのは、「○○になる」ということ。(人間は)変化するわけだから「○○になる」ということはあったとしても、その「なる」先を想定しているか、それともあけているか。「○○になる」自分の「なる」先を決めているか決めないでいるか、すごく違いがある。
例えば、わたしは「○○になろう」と思ったら、そこから逆算して「じゃあ、今、何をしなければいけないか」「だから、わたしはこういうふうに頑張ろう」みたいになるけど。例えば植物みたいに……それこそ「フィシス」。種があって、その種から何が出てくるか分からないけど、何か出てきました……。
津崎 「フィシス」って、自然とか生成という意味のギリシア語ですよね。
五十嵐 そう。自然。そこから、こういうふうになって、こういうふうになって、こういうふうになって(自由な手振り)というふうに。こう(まっすぐ上昇の手振り)じゃなくて、そのときそのときで自分の心地よいように、自由に自分を野放しにするという方向に行ったときに、それぞれの一歩一歩も全部、野放しの自由なわたしであって、どこに行くか分からないけど、どこに行こうとしても……。
津崎 偶然に自分を任せるということ?
五十嵐 そうそう。
●ヨーロッパの言葉では「幸福」と「幸運」は密接に関連する
津崎 僕はあまりドイツ語が得意じゃないから、さっちゃ...