●ハイデガーが問う「わたし」と「記号」と「本来的存在」
津崎 となってくると、ちょっと光が見えてきたかな。
五十嵐 最初から光っていたと思うけど(笑)。
津崎 光っていた。幸福から、幸運の話も少し出てきて、いろんな哲学者を見てきたけれども、やっぱり話は尽きない。
五十嵐 そう。だから次はハイデガー、(わたしの)専門の。
津崎 ようやく出てきた。視聴者の方は、あとどれくらい聞いたら核心に着くんだろうか、と思っているかもしれない。
五十嵐 本当に。でも、最初から核心といえば核心ですよ。
津崎 いよいよお待ちかねのハイデガー。
五十嵐 「お待ちかね」と言われると、ちょっと緊張する。ハイデガーが、「わたしたちってみんな、いろいろな記号で生きている」と言っている。例えば先生、哲学者、お父さん、中学生、男、女、ユダヤ人、ナチス……。そういういろんな記号を自分で引き受けて生きている。
その記号としてしか世界のなかにいられないから、わたしはやっぱり「○○として」(例えば、女として、女だてらに、女のくせに、その女のなかで……)しか頑張れないし、○○としてしか評価されない。だけど、「それが本当のあなたなの?」とハイデガーは問いかけてくる。
「わたしは女だ」と思って育ってきたんだけど、ハイデガーは、「それって、本当にそうなの? それとも、そういう記号を自分に当てはめて、その記号として100点を目指しているだけなんじゃないの? それ、やっていて幸せなの?」と。
それは、幸せじゃない。「だって、ほら、見てみなさいよ。世界中の人がみんなそうやっているけど、それで幸せかといったら、みんなつらそうな顔しているじゃない?」、じゃあ、「つらそうな顔をしている人ってだれなの」っていうと、「世界中の人が、みんな記号じゃなきゃいけないと思って、つらくなっているおんなじ人たちだっていうことが分かるでしょう?」と言う。
それをハイデガーは「本来的存在」と言う。みんなが「本来的存在」なんだけど、自分の自由も自分の思いも全部封じ込めて、記号のなかに自分を入れて、諦めて、悲しいけど生きているんだよ、と言う。