●ベンサムが編み出した「快楽計算」の方法
津崎 前回の話を聴いていて、思い出したんだけど(ごめんなさい、視聴者の方。話がいろいろと進んでしまって)、「豚の哲学」って聞いたことある?
五十嵐 聞いたことない。知りたいです。
津崎 「ライオン食べ」で、動物と言ったら「豚の哲学」だ!って思い出してしまった。これは悪口なので、豚にはちょっと申し訳ないんだけども、いつぐらいの哲学について言われたかというと、ベンサムとかミルとかの功利主義の哲学の時代。
ベンサムは「最大多数の最大幸福」という言葉を出した人ですが、「快楽計算」ということをやっている。前回のBMIの話でいくと、どの程度求めれば快楽が満たされるかを計算しなきゃいけない。
ベンサムはいくつか計算のマトリックスを作っていって、どれくらい快楽が持続するかの持続性とか、その快楽が単純かどうかとか。それを求めると、苦痛が一緒に生じないか。飲みすぎて気持ち悪くなるとかさ。本末転倒にならないように。
あるいは、 快楽を満たした結果、いろんなものが生まれてくるでしょう? 例えば、サンドイッチを食べて、「ああ、おいしかった」だけじゃなくて、「一緒に食べたあのときの景色がきれいだったな」とか、「話が面白かったな」とか。一つの快楽を満たした結果、いくつかの快楽が生まれてくるという多産性。
あるいは、どれだけその快楽が強いか。「まあ、おいしかったね」というのか「すっごいおいしかった」というのか、その強度の問題。持続、強度、それから手に入りやすいかどうか。例えば、ツバメの巣って、なかなか手に入りませんでしょ? だけど、サンドイッチだったらーーおいしいサンドイッチは津々浦々探さないといけないかもしれないけどーー、近くのパン屋さんで買える。手に入りやすいかどうかの近しさ。
あるいは確実なものかどうか。「あ、おいしそうなサンドイッチ」と思って食べてみたら、実はプラスチック製の偽物だったとか。つまり、確実かどうか。
こういったいくつかのマトリックスから「快楽計算」というものをして、その計算の結果、「最大多数云々」というぐらいだから、ベンサムにとって幸福というのはやっぱり大きいほうがいいわけです。量が大きいほうがいいと。
●「満足した豚よりも……」と質を主張したミル
津崎 ただ、快楽計算をして、「これだけの快楽が集まりました」と言った結果、「でもさ、それって動物にもあるような下等な快楽じゃない? 豚のようだよ」と言われてしまう。「量より質だ」という話で、ミルが来るわけです。
「快楽の量」が大事だと言って快楽計算をして、足し算のごとく快楽をかき集めても、「豚の哲学」と言われてはしょうがない。快楽の質のほう、上質なもののほうが、幸福にとっては大事でしょう、とミルが言い始める。
彼は、こういうことを言いますね。「満足した豚よりも不満足な人間のほうがまだいい」と。「満足したバカよりも、不満足なソクラテスのほうがずっといいんだ」ということを言っている。なんか「量より質だよね」という話もあるじゃない? そんなことを今、BMIとかサンドイッチの話をしながら思い出していた……。
五十嵐 それで考えると、ベンサムの話というのはゼロがデフォルトで、満足は「どれだけ高いか」ということだと思う。でも、前回のBMIの話でいうと、100がデフォルトで、そこからどのくらい離れているか。ちょっとしか離れていない人はすぐに100にくるんだけど、いっぱい離れている、「自分は不幸だ、足りない」と思っている人は、すっごく……。
津崎 埋めなきゃいけないと焦っていると。
五十嵐 そう。だから、ここの位置というものを自分で決められるんじゃないかな。
津崎 位置というのは100のこと?
五十嵐 自分の位置。
●渇きに精神を反映させる「BMI28」の人びと
五十嵐 どのくらい自分に与えれば自分が満足するのか、どのくらい与えれば自分の欠乏が満たされるのか。
そこで話したのは、喉が渇いたときに、「喉が渇いたから喉の渇きを潤せばいいんだ」と思う人と、喉が渇いたことに「寂しい」とか「認められていない」とか別の要素が入ってくる人がいる。そういう人って、喉が渇いたときに、ただ喉の渇きをお水で潤せばいいというふうに思わないで、「隙あらば」というか、何か買ったり求めたりするときに隙あらば、満たされなかった自分の欲望というか、寂しい自分の「気持ちを満たす」ような選び方をしちゃうんじゃないか、という話になって。
津崎 つまり、それは…。
五十嵐 気...