●難破船から文明の利器を運び出す
再び具体例に即して検証してみたいと思います。
これもけっこう有名な場面です。無人島に漂着したロビンソン・クルーソーは、その後、沖合に座礁した難破船からたくさんの文明の利器──銃などが有名ですが、ほかにも斧などの便利な物を運び出すわけです。そのようななかで、お金を目にしたときのロビンソンの反応を描いているのがこの場面になります。ちょっと読んでみましょう。
「“船室は隅々まで物色したのでなにも見つかるはずはないと思っていたのに、引き出しつきの棚を発見し、引き出しの一つには二、三本のカミソリと一本の大きな鋏、十数個の上等なナイフとフォークがあった。ほかの引き出しには、三十六ポンド分のお金が見つかった。(中略)お金を目にしたぼくは心のなかでニヤリとした。「このゴミ屑め!」と声に出して言った。「お前が何の役に立つっていうんだ。お前はぼくには価値がない。地面に落ちていても拾うつもりはないし、こんなに積まれたところであのナイフ一本ほどの価値しかないのだ。ぼくはお前を使おうにも使えない。そこにいつまでも留まり、海の底に沈むがいい。お前の命は救われる価値もないのだから」でも考え直してこのお金を持ち去ることにし、すべてを帆布の切れに包みながら、また筏をつくらなくてはと考えはじめた。”
というわけです。いったん説明抜きで、次のスライドに行きましょう。
●お金を罵倒しながら持ち帰るロビンソン
今の場面、何か不思議な感じがしませんか。つまり無人島で自給自足をするロビンソンの自立心や、よくロビンソンの人物像と結びつけられる「文明社会との断絶」といった側面を強調するのであれば、ロビンソンはお金を持ち帰る必要はなかったのではないでしょうか。
先ほどの引用で、無人島生活にお金が不要であるという理由は長々と述べられていたのですが、何を考えてロビンソンが結局お金を持ち帰ったのかは書いていません。「考え直して」と書いてあるのですが、どう「考え直し」たのかは一切書かれていません。ひょっとしたらロビンソン自身も、なぜ持って帰ってしまったのか、分からないのではないでしょうか。ここでもまたある意味で、言行の不一致があるわけです。
実はこれに気づいたのは私だけではなくて、後の時代にロビンソンのキャラクターをもっと理にかなったように、あるいは理屈に合うように書き直して、先ほどの場面も書き直した人がいるのです。
●理屈に合うカンペのロビンソン
それがヨアヒム・ハインリヒ・カンペというドイツの教育家であり、教育学者でもあった人です。この人は『ロビンソン・クルーソー』を児童教育用に書き直し、今ではあまり読まれていませんが、刊行当時は非常に評判になりました。
実は英語にも、ドイツ語から逆輸入された作品があります。それが『新ロビンソン物語(“Robinson der Jungere”)』という作品です。1779年から80年まで、もとの『ロビンソン』が出てから60年後ぐらいに刊行された作品になります。
このカンペの改作では、ロビンソンは難破船から文明の利器を持ち帰ってはいません。なので、金貨を見つける場面もそのままでは出てこないのですが、代わりにカンペのロビンソンは島のなかで金塊を見つけます。その場面を少し見てみましょう。
以下は『新ロビンソン物語』の田尻三千夫さんという方の翻訳からとったものです。島のなかでロビンソンは台所づくりをしているのですが、その途中で、地中に巨大な金塊を見つけます。そのときクルーソーはこう言います。
“見つけた宝を喜ぶどころか、馬鹿にして足で蹴飛ばし、(クルーソーは)こういったのだ。「人間どもが涎を垂らしてほしがるのが習いのこの哀れな塊よ、そこに転がってろ。お前がぼくになんの役にたつものか。お前の代わりに鉄のかたまりでも見つけていたならなあ。(中略)」このようにしてロビンソンはその貴重な宝をそっくりそのまま軽蔑して転がしておき、その後側を通っても一顧だにくれないのだった。”
どうでしょう。こちらのほうが一貫した性格ではあります。少なくとも言行は一致しているわけです。お金に対する軽蔑の言葉を投げかけて、その後、その言葉通りにお金を軽蔑して一顧だにくれていないわけですから。
●ルソーの影響による改作と原作を比較する
カンペという人物の改作について少しだけお話をしておくと、この改作の背景には、あの有名なジャン・ジャック・ルソーの書いた教育書『エミール』の影響があることが知られています。実は『エミール』のなかでルソーはこうい...