●イスラム教の抱える構造的問題と文学への期待
―― イスラム教はコーランとハーディスの解釈次第で、過激派にも穏健派にもなり得ると、講演でおっしゃいました。イスラム教がそういう構造を持っているとすれば、それは寂しいことかもしれませんが、今後もその構造を内包しながらイスラム教は続いていかなければならないと、先生はご覧になっているということなのでしょうか。
山内 鋭いところへご質問頂きましたが、これはテレビや新聞ではどう表現したらいいか迷うところです。私は率直に言って、イスラム教徒自身がそういうことときちんと直面することが必要な時期になってきたのだろうと思います。
日本在住者を含めて、イスラム教徒が言っているのは、「イスラムは平和の宗教です。イスラム国(IS)はイスラム教徒ではありません」というところ止まりです。イスラムの何が彼らを生みだしているのか。彼らはイスラムのある部分を強調しているわけですが、彼らが教義のどこをどのように利用し、曲解しているのかということについては説明しないのです。
しかしながら、今のご質問は本質的なところを突くお尋ねです。その問いに対して私はすぐに回答する準備はありません。先ほど「寂しい」とおっしゃいましたが、私は「悲しい」ことだと、ペシミスティックに捉えています。私の答えは明言しがたいのですが、この講演の文脈と今の表現でお分かりいただければと思います。ペシミスティックですね。
イスラム教の構造はしっかり押さえていかなければなりませんが、逆に言うとその先には何が見えてくるかです。それを極端に先取りしているのがISですから、それを「ニヒリズムだ」と私は言ったのです。問題はそれを内包しても、ニヒリズムを克服する努力は、その中からしか生まれないのです。
トゥルゲーネフが『父と子』を書いたような勇気を持った知識人や文学者。これが、自分たちの抱えている問題をどういうかたちで表現し、かつそれが文学的に「人々の心の魔法を解いていくか」(マックス・ヴェーバーの言葉「エントサーベルン(Entzaubarung)」を引用)という作業にかかっていく。こういうことが始まった、あるいは始まってほしい段階です。
●ハワーリジュ派はどこから「出ていった」のか
―― 結局イスラム教は、一神教と理解してよいのですね。そして、その外側に出ていった人が...