日本の儒教が中国の儒教と異なるのは、日本の稲作社会の特殊性も関わっている。稲は収量が多いのでうまく行けば食べるのに困らないが、うまく行かなかった場合、「メンテナンス不足で頑張りが足らなかった」という発想に向かいやすい。同じ発想が大災害や戦争のときにも起こる。戦争で負けたときも、社会に欠陥があると考えず、「大変だったけど、また頑張ってメンテナンスすればいい」と考えてしまう。今回は、とかく頑張ることが好きな日本人と稲作社会との関係性を解説する。(2025年8月30日開催:早稲田大学Life Redesign College〈LRC〉講座より、全7話中第3話)
※司会者:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●米が獲れないと「頑張りが足らない」と考える
―― 10ミニッツ・アカデミーで、(宗教哲学者の)鎌田東二先生が神道の話をしています。鎌田先生が神道の1つのコアなメッセージと言っているのが、「修理固成」という言葉です。
與那覇 まさにメンテナンスのことですね。
―― 基本的に日本の場合は、生命力がベースで、どんどん自然が進んでいくから、それをうまく修理して、固めて、成していくのが人間の役割ということです。それをベースに、儒教もだんだんそちらに寄ってくるのでしょうか。
與那覇 そういう性格もおそらくあります。よく「神仏習合」と言ったりもしますね。仏教が外国から入ってきても、いつの間にか神道とくっついた。いわば「神儒習合」です。儒教が入ってきても、日本にもともとあった別のものとくっつくことはあるでしょう。一方でもう1つ、鎌田さんの学説と違うことをお答えすると、やはり稲作が関わってくるのです。
私が学者をしていた時代に『中国化する日本』という日本通史の本を書いたことがあり、そちらでも述べたことです。「日本は稲作の文明である」というと、弥生時代以降ずっと全国に田んぼがあったように錯覚しがちですが、これは誤りです。稲作がガッと普及するのは江戸時代です。
皆さんは棚田などを見て不自然と思いませんか。今釧路湿原の例が連日ニュースを賑わしていますが、なぜ物を置きにくい日本の山並みに、メガソーラーをこれほど置くのか。不自然でしょう。
「“自然”エネルギーでなく、“不自然”である」ということが、今ちょっとニュースで騒がれています。同様に、なぜこんなに峻険な山並みを水平に削って、田んぼを作らなきゃいけないのか。よく考えると不自然だと思いませんか。
棚田は中世の終わりぐらいから広まって、江戸時代に平和になるから棚田のようなことが、もっと広くできるようになったのです。だから、本来は日本においては不自然なことをやっているのです。
特に日本の稲作の場合、水を水平に張らないと、そもそもできません。中世までの日本は稲を食べている人と同じぐらい、イモを主食にする人がいたという学説もあるぐらい、稲だけを食べていたわけではないのです。
江戸時代になって米、稲が普及し、稲作では水を水平に張らなくてはいけない。しかも、だだっ広いところに水平に...