●戦後70年談話に関する三つの視点
皆さん、こんにちは。今年(2015年)の夏に、安倍晋三総理大臣の戦後70年に関する談話が出される予定です。この談話に関わる有識者懇談会、短くして「21世紀構想懇談会」といいますが、私はそのメンバーの一員でありまして、すでに4回の会合を重ねてきました。世の中ではこの懇談会の性格について一部誤解があるように思いますので、少し述べていくことにします。
いずれにしましても、私が今日申し上げたいのは、これからシリーズとして何回かに分けてお話しすることになるかと思いますが、大きな世界史というものを意識して問題を俯瞰せよということが一つ目にあります。
二つ目として、職業としての歴史家が、いかなる立場でこうした問題に取り組むのかということについて、基本的に政治家や外交官とは違うところがあるという面を話してみたいと思うのです。
三つ目は、常に謝罪、あるいは、反省、賠償といったキーワードでこの問題を捉え、かつその連鎖で考えようとすることについてです。政治家や外交官の場合には、そうした面が当然相手国との関係で出てきますが、学者や社会科学者の場合には、こうした謝罪、あるいは、反省、賠償といったキーワードが入るのか入らないのかといったような形で歴史解釈をすることは、あまり健全とは思えません。
以上のような点について、これから回を分けてお話ししてみたいと思うのです。
●必要なのは学者の論理とバランス感覚
ところで、「21世紀構想懇談会」の性格についてですが、この懇談会は、総理が談話で何を語るべきかを議論したり、あるいは草案のたたき台をつくって提示し、それを総理の元に上げていくといった場所ではありません。安倍総理が談話を準備されるに当たって、ものを考える根拠、あるいは歴史の見方など、総理が談話をお考えになる材料や立場の参考になることを供することがこの懇談会の主な役割であります。
そこで要求されるのは、当然、専門家、職業としての歴史家、あるいは、歴史学者にとっての高い学問的水準と、ものを語る際の史料的実証性、つまり、歴史的事実であったかどうかについて議論することであり、歴史的事実でもないことについて、創作したりすることによって、ある種の政治的価値観をつくり出すようなものではないのです。
また、理論的にもきちんと整合している、ある種の一貫性、インテグリティーを持っていなければなりません。つまり、アカデミズムの論理、学者としての論理や資質、条件が当然問われるわけでありますが、同時に、そういう学者としての論理だけではなく、日本の市民として健全な常識、あるいは、全体的にものを捉えていくバランス感覚を併せ持つことが、大変大きな条件になろうかと思います。
したがって、メンバーは、この双方を自由かつ闊達に交換させ、議論を交わすことが必要になりますから、専門家としての学者だけではなく、行政経験や外交経験の豊富な外務省のOB、あるいは、NGOの関係者、そして、企業活動を通して近隣諸国との通商貿易などにもタッチしている財界人、さらに、何よりも、こうした問題について時に不確かな点も含めて報道するということで、最近一部の新聞やメディアが批判された記憶は新たでありますが、そうしたマスコミの関係者も、やはりこのような問題について主体的に関わってほしいという願いを持ってつくられたのだと思うのです。
●30年間歴史学を教えた中東の専門家
ところで、これまでの私の話をお聞きいただいている方にはあまり不思議でないのかもしれませんが、おそらくこの10MTVをお聞きになっている視聴者の方がやや不思議に思われるのは、世間一般の意味からいえば、イスラムの歴史や中東の現代政治などを専門にする私が、なぜ懇談会のメンバーに入っているのかということだろうと思います。
そこで、少し私の自分史を回顧させていただきます。私は、30年間にわたり東京大学教養学部、特に1、2年生から3、4年生の専門課程の学生、また大学院の総合文化研究科の学生諸君たちを教え、共に学んできました。その中でも重要な比重を占めるのは、1、2年生の理科生や文科生、あるいは全く歴史に縁のない世界に進んでいく若い世代に対して、歴史学を教えるという仕事でした。
その際、私は、当然イスラムや中東の歴史について教えるわけですが、専門家として成長するわけでもない人たちに、イスラムの細かい知識や、中東政治の細部に当たる現象を分析して伝えるといったようなことだけを全てとしていたわけではないのですね。むしろ、イスラムや中東を学ぶことは、日本人として何のために必要なのか、いかにして学ぶのか、その問題意識はどこにあるかを考えることだとして、成長し社会人としてやがて巣立っ...