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慈悲深さ・寛容さと前向きさを持ち合わせたバランス感覚

ムハンマドを知る(2)「罪と罰」の裁定者

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授
情報・テキスト
中東情勢が世界の注目を集める今、その動向を理解するにはそこに住まうイスラムの価値観を知る必要があるだろう。預言者ムハンマドの人物像を知ることは、その何より確かな道筋となる。歴史学者・山内昌之氏のナビゲートで、ムハンマドの実像に迫ってみよう。(全6話中第2話目)
時間:08:07
収録日:2015/05/28
追加日:2015/06/22
タグ:
≪全文≫

●「ハディース」に残るムハンマドの言行


 皆さん、こんにちは。

 ムハンマドが生前に発言し、行動した記録は、さまざまな人によって証言され、言行録として彼の死後になって集成されました。まさにイスラム伝承集成ともいうべきもので、「ハディース」と呼ばれています。日本語訳は、先般亡くなられた牧野信也博士によってなされ、中央公論新社から出版されています。

 興味深いのは、その下巻にある「刑罰」という章です。そこには、彼の下した裁定が、重複を交えながら載せられています。今日は、これについて少し紹介してみたいと思います。


●姦通の告白を聞かないふりをした預言者


 例えば、ある男が預言者のところにやってきて、事もあろうに自分の姦通を告白する事例などは、とても興味深いものです。

 ムハンマドは、メディナの時代に、家族を社会すなわちイスラム共同体(ウンマ)の最も大事な基盤と考え、家族の成立する前提として婚姻を重要なものと考えました。彼が神の啓示を受ける以前の時代、アラビア半島は性道徳の点においてすこぶる紊乱(びんらん)で、婚姻の慣習も男の恣意を許すものだったようです。そこでムハンマドは、幸福な家庭をつくり維持することを、最大の信仰の理想だと考えました。そのような彼にとって、姦通ほど忌まわしい罪はなかったといえましょう。

 「ハディース」の記述によれば、くだんの姦通を自白した男に対して、ムハンマドはまことに不思議な態度に出ています。「預言者はこの男から顔をそらした」とあるのです。おそらくムハンマドは聞きたくない話題だと察知して、聞かないふりをしたのでしょう。


●4回繰り返し証言した後に与えられた罰


 ところが、この男は、よほど自分の罪を積極的に告白したかったのか、あるいは性格的にしつこかったのか、いずれかであったと思われますが、ムハンマドの前で、わざわざ「姦通した」という言葉を4回繰り返しました。それが偽りでないことを、自ら4回も証言したのです。

 4回繰り返し証言したことによって、男の発言は明らかに信憑性があること、少なくとも彼自身がそれを証明したことになります。そうなりますと、さすがのムハンマドももはや無視できなくなったのです。そこで預言者ムハンマドは、男が正気かどうかを尋ね、「では、お前は結婚しているのか」と重ねて尋ねたところ、男は「はい」と答えます。そこでようやくムハンマドは男を連れて行き、「石打ちにせよ」と命じました。「石打ち」とは、石を投げ付ける刑、英語でいう「ストーニング」のことです。

 いざ石打ちとなると、男はおじけづいたのか後悔したのか、逃げ出そうとします。結局、男は追い詰められ、石打ちの刑にあって死んだという話になります。ところがこの後、ムハンマドは預言者として、彼のために良かれと祈ったという伝承が残っています。
 

●「法匪」となるには遠かったムハンマド


 少しニュアンスの違う伝承も残っています。それは、ムハンマドが顔をそらすと、この男はなおもその方へわざわざ向かっていって、同じことを語ったというのです。預言者はさらに顔をそらしましたが、そうしたところ、男はまたそちらへ行って顔を向け、「自分は姦通をした」と告白しました。つまり、預言者の配慮、気遣いを無視するかのように、彼の方に向かって「それは本当だ」と4回も繰り返し証言したというわけです。この後の顛末はほぼ同じで、預言者は彼が正気かどうかを確かめ、結婚の有無を尋ねた上で石打ちにするよう命じた、という伝承です。

 これらの話から分かるのは、ムハンマドは自分から罪に当たる行為を根掘り葉掘り聞いて罰を科すようなことをしなかったということです。法律だけを至上化して人間性を無視するような輩を「法匪(ほうひ)」と呼びますが、彼がそのような性格からは遠かったことが伝わってきます。


●宗教者性と政治家性の絶妙なバランス


 あえて言うなれば、自然体のムハンマドには、宗教者に欠かせない慈悲深さや寛容さ、そして政治家に必要な前向きさがバランスよく共存していたということです。政治とは運用であり、足し算と引き算の技術ですから、万事積極的で前向きにものを考える習性が欠かせません。宗教者性と政治家性がバランスをとって共存していた形跡が、「ハディース」からは伝わってくるのです。

 イスラムにおいては、酒を飲むことも禁止されています。そこで、信者の中には酒を飲んだ者に対して呪いの言葉を掛けようとする者が現れます。ムハンマドは、このような信者に対して「シャイターンをけしかけてはならない」と語ったといいます。シャイターンとはサタンであり、神の被造物でもある悪魔を意味する言葉です。預言者は、「彼を呪ってはならない。そのような人間であっても、神(アッラー)を愛し、使徒である...
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