●共に礼拝して過ちは許されたとした預言者
皆さん、こんにちは。
今日は、引き続きムハンマドという人物の多彩な才能を取り上げ、そこに共通して見られる彼の人間的な個性などについて、触れてみたいと思います。
ムハンマドは本質的に宗教者ですから、彼にはもちろん宗教者としてふさわしい振る舞いの逸話がたくさん伝えられています。
あるとき、一人の男がやってきました。この人物は、「自分は過失を犯したので、それについて告白し、罰を乞いたい」と申しました。すると、ムハンマドは男に何も尋ねませんでした。やがて礼拝の時刻になりました。ムハンマドは男と一緒に礼拝し、それが終わると、過ちについて「神の書」に従って罰するようにと求めた男に再び対面します。「神の書」とは、もちろん「クルアーン」のことです。
「ハディース」の中では、男がいかなる罪を犯したのかは、触れられていません。「ハディース」に残されているのは、次のような話です。
ムハンマドは「お前はわれわれと一緒に祈り、神に対して礼拝したではないか」と言ったので、その男は「はい」と答えました。すると預言者は、「アッラーはすでにお前の過ちを許された」と述べました。これを「お前の罰は免除された」と表現する伝承もあります。
●ラマダーン月に妻と交わった男に与えた罰
大変興味深いのは、罰に当たらない軽い罪や過ちを犯した場合、それを宗教指導者(イマーム)に告げ、意見を求める者は、悔い改めるならば罰せられないというのが、ムハンマドの考えの中心にあったことです。実際にそうした人物をムハンマドが罰したことはありませんでした。
例えば、結婚している男がラマダーン月に妻と交わるのは違法とされているのですが、そうした男についても罰しなかったという伝承も伝わっています。ある男が、ラマダーン月において妻と交わりを持ったことをあえて告げますと、ムハンマドは、「お前には奴隷がいるか」と問いました。奴隷所有の有無を問うのは、つまり金持ちかどうかという意味です。あるいは、「お前は2カ月間の断食を決心できるか」とも尋ねました。
男の答えは、「自分は財産が乏しく、奴隷もいません。その上2カ月の断食をするほどの意志力もありません」というものでした。イスラム教徒にもいろいろなタイプが居ます。ひと月の断食だけでも大変なのですが、ラマダーン月なのに女性と交わりを持つような男は意志薄弱であろうと、ムハンマドは見て取っていたわけです。
「そうすると、お前にできることは60人の貧しい者たちに食べ物を与えることだ。それならできるだろう」と言い、この男に対して、ある種の罰を科したということです。
●貧しい男のあがないのために自ら喜捨
誰もが豊かな有産者であるはずもなければ、意志強固な人物であるわけでもありません。そうした人物にも可能な償い、あるいは罪へのあがないとはどういうことかを、ムハンマドの言行録である「ハディース」は、分かりやすく示しているわけです。
しかし、彼の最後の最愛にして最年少の妻であるアイーシャが伝える逸話では、ややニュアンスが異なっています。ムハンマドが「喜捨(サダカ)をせよ」と命じると、男は「自分には何もない」と答えたというのです。するとムハンマドは、食料を積んだろばを見て、「これを使って施せ」と述べたといいます。「家族に食べるものが何もないのです」と男は答え、人に施す前に自分の家族すら食べる物がないことを訴えました。「では、これを食べなさい」とムハンマドは述べ、その中から家族にも分け与えるようにしたのです。
ここで問題なのは、では食料を積んだろばを持って来たのは誰かということですね。そこが面白いところなのですが、どうもこのコンテキスト(文脈)を常識的に捉えると、ムハンマドが男に罪をあがなわせるため、自ら喜捨をしたことを示唆しているようなのです。
●小人への遇し方から浮かぶ預言者の偉大さ
現代人の感覚からすると、罪を告白したこの人間はいい気なものです。自分は、罪を犯したと預言者に告白することで、心が安らかになります。そして預言者は、それに対して相応の罰をお与えになるのです。心が安らかになった上に、信仰も損なっていないことになるのでしょう。自分の財産は少しも失わず、ムハンマドにすがって罪をあがなったわけです。実にちゃっかりしています。
預言者の寛大さに便乗し、しかも家族のための食糧まで分け与えてもらったというのは、いささかこずるい感じがなきにしもあらず、というところです。しかしながら、そのように小さな器になりがちなのが人間の心性で、たいていの人間はそもそも器が小さいものなのです。こうした人間の心性、小人の心持ちをいちいち詮索しない大らかさが、まさに宗教指導者ムハン...