●偶像崇拝や背教者に対し苛烈な裁定を示す
皆さん、こんにちは。
前回まで、ムハンマドの多面的なリーダーとしての資質について触れてきましたが、ムハンマドは寛大かつ温雅な面ばかりではなく、もちろん一己の偉大なリーダーとして厳しく非常に苛烈な側面も持っていました。特に偶像崇拝に対する厳しさ、そして不信仰者、つまり信仰を失った者、信仰を持たない者、あるいは信仰を持ちながらそれを捨てた者、すなわち背教者に対して、ムハンマドは時に苛烈な裁定や判断を示しました。
この点について、クルアーンには次のように規定されています。アッラーとその使徒、すなわち、ムハンマドに対して戦を挑み、地上に退廃をまき散らして歩く者どもの受ける罰としては、殺されるか、あるいは磔にされるか、手と足を反対側から切り落とされるか、さもなければ国外に追放される以外ない。
●ムハンマドの厳しさを物語る棄教者への態度
ある時、ウクル族という部族が、預言者の元にやってきました。彼らは大変うらぶれてやってきて、救いを求めたのです。そして、イスラムに改宗した彼らは、メディナのモスクの回廊に住み、その中で病気にかかりました。その時の話が、大変示唆に富んでいます。
ムハンマドは、ラクダを連れてこさせ、喜捨としてそのラクダを彼らに与えました。ラクダの尿、ラクダの乳を飲ませるように命じました。その結果、彼らは健康を回復して、再び体もゆったりと太ってきますと、今度は、なんとあろうことかイスラム教から棄教し、しかも彼らにラクダをもたらしたラクダ飼いを殺し、そして、そのラクダを奪い去って遁走したのです。そこで、ムハンマドは追っ手を遣わします。誠に当然のことだったといえましょう。犯罪行為をした者たちに対して、まさに日本風に言えば、天網恢恢疎にして漏らさず、となるでしょうか。昼にならないうちに彼らは全員捕捉されて、連れ戻されました。
その時のムハンマドの取った態度が、すこぶる苛烈であったわけです。これは「ハディース」の中で何カ所も記録されています。それは、まず釘を真っ赤に熱して、それで彼らの目をつぶすように命じました。そして、彼らの手と足を切り落とさせました。それは、クルアーンにのっとって、ということなのでしょう。しかも、血を止めるための焼灼(血止めの措置)も取りませんでした。その後で、彼らは溶岩台地に放り出されて、水を求めたけれども与えられず、その罪をあがなって死んだということなのです。
これは、ウクル族ではなくウライナ族だともいう説もあり、その事例かともいわれることでありますが、いずれにしても、失明した彼らが渇きのために水を求めても与えなかったという苛烈さは、あの寛大で慈悲深く、万事前向きに物事を処理しようとしたムハンマドには見られない厳しさでありました。
●ムハンマドとイスラム過激派の相違点
これは、イスラム教徒が棄教して、しかも殺人行為を犯し、あまつさえ窃盗も犯したことが忘恩と絡まって、ムハンマドの非常に厳しい容赦ない対応ぶりとなったことを示しています。ここでは、宗教的な使命感が、あたかも革新的な政治家の妥協なき判断に乗り移って、怒りが何倍にもなった感があります。
しかし、こうした苛烈な行為であっても、ムスリムが後世の人間と同じように動じないのは、ムハンマドが自分個人のため、私的な恨みを晴らすために復讐したとは決して考えなかったからです。また、実際そうだったのでしょう。アッラーの禁忌(タブー)が犯されたときのみ、ムハンマドは神のために復讐したという典型例、またそうしたことを忘れてはならない教訓として、この伝承が現在にまで生き延びたのだと思われます。
しかし、これは、そうした非常に例外的な現象、しかも非常に悪質にイスラムを捨て、イスラム教徒に仇を成し、そしてムハンマドの恩を忘れて犯罪に走り遁走したという、こういう集団に対して当てはめられていることであります。このような現象を、自分たちと主義主張が違うからといって、一般的に厳しくイスラムを解釈し、そうでない人々に対して、テロあるいは暴力を辞さないという極端なケース、つまり現在のイスラム過激派や、イスラム国(IS)の暴力やテロ、殺人という行為を、全て正当化するものではないと見なければいけません。
すなわち、ムハンマドの全体としての人間像、あるいはリーダー像は、苛烈な部分、寛容な部分、温雅な部分を、さまざまなバランスの中で捉えていく必要があるということの根拠として、今日はこの話をしたわけであります。
それでは、ひとまず失礼いたします。