●「お金」の概念がない山奥の村に生まれて
自己紹介を兼ねて、私の子どもの頃の話をしたいと思います。私は岡山に生まれ、一昨日が誕生日で67歳になりましたが、自分ではあまりピンときていません。生まれたのは岡山の山奥で、私がまだ子どもの頃はお金という概念がない所でした。たまに町から車で物売りがやって来ますが、大体米などと物々交換するのです。そういう原始共産社会のような状態で、イノシシが捕れると半鐘が鳴って、皆が川に集まり、肉を切り分けるようなそういう村で育ちました。
お金という概念がなく物々交換をしていた子ども時代から、今の電子マネーの時代まで、自分の中では40年か50年でわっと変化が起きているわけです。その違いはすごいなという感じです。
うちの母親は当時、肺結核で町の病院に入院していたのですが、もう治らない状況で家に帰ってきました。それが私の小学校1年生の頃です。
●母親の死とダイナマイト
当時、村で唯一の現金収入の道は、鉱山で働いて給料をもらうことだけでした。うちは農業をあまりやっていなかったので、父親が鉱山に働きに行っていました。
当時の鉱山では坑道を掘り進む途中、ダイナマイトを使って、あちこち爆発させるのです。今ではそういうことはしませんが、昔は穴を開けてダイナマイトを詰めて爆発させ、鉱石を運び出すということを、毎日繰り返していたわけです。今は削岩機でやりますが、その結果、珪肺が増えたともいわれています。そういうこともありますが、当時はダイナマイトを使っていました。
このダイナマイトを家でも使うため、父親が鉱山から持ち帰るので、家には大体いつも1箱はありました。それに火を付けて魚を捕ったりするのです。水しぶきがバッと上がってメダカが浮いたりするのですが、魚はあまり捕れません。そんなわけで、ダイナマイトはいつも身近にありました。
なぜダイナマイトの話をするのかというと、私の母親がダイナマイトで死ぬからなのです。普通、ダイナマイトはそれほど身近なものではありませんので、まずその説明をしておこうと思ってお話をしました。
●人に言えなかった母のダイナマイト心中
それで、母親が町から帰ってきたのですが、鉱山で仕事をしている近所の若者がうちに出入りするようになりました。その中の一人が母と恋愛関係になり、二人は山の中に行って、ダイナマイトを爆発させて心中するわけです。私が小学校1年生の時でした。
このような経験があったのですが、これは自分の暗い過去という感じがあって、なかなか人には言えませんでした。そんな話をすると場が暗くなるので伏せていたということもあります。高校を出た後、大阪の工場で働くようになったのですが、社会に出てもやはりこのことは人にはあまり言えませんでした。
その後もいろいろなことをやり、27歳の時にいよいよ白夜書房の前身であるセルフ出版という会社の立ち上げに参加させてもらいました。それで、今度は出版関係の人たちと付き合うようになります。一般の人とは違うというか、それまでの工場の同僚とは違う人種の人、少し変わった人たちとも付き合うようになったのです。
●クマさんに認められ、処女作出版へ
その中の一人に篠原勝之さんが居ました。「クマさん」というのですが、着流しでよくテレビなどに出られている、鉄の彫刻をつくる人です。この人と飲んでいる時に、ふっと「母親がダイナマイトで心中しまして」と言ったら、「おっ、すげー。すごいね、それは」と驚くのだけれども受け入れるというか、むしろ本当にすごいことだと面白がるような感じで言ってもらえました。そのあたりから、人にも平気で言えるようになったのです。
普通、日常で人と世間話をするときに、「実はうちの母親はダイナマイトで・・・」などということは、それまであまり言えなかったのです。ところが、クマさんが「おっ、末井、面白い」と言ってくれたことによって、ある種表現的なことだと思えるような、そういう経験をしました。
その後、私が最初に本を書いたのは1982年でした。『素敵なダイナマイトスキャンダル』という本で、最初からいきなり母親の自殺の話です。当時、岡本太郎が「芸術は爆発だ」と言っていた時期です。この本の冒頭は、「芸術は爆発だったりすることもあるのだが、僕の場合、お母さんが爆発だった。」という書き出しで始めました。この本は、結構多くの方に読んでいただいて、特に編集者の方に読んでいただきました。
●出版の依頼はインタビューがきっかけ
話はいきなり何十年も飛びますが、そういう前提があった上で、2009年10月に朝日新聞から「インタビューをさせてほしい」という依頼が来ました。自殺防止に関するインタビューでした。
なぜ私のところに来た...