●シーア派指導者処刑からサウジ・イラン断交へ
皆さん、こんにちは。私は、このお正月の1月6日から18日まで中東に出張してきました。偶然にも今、国際政治の焦点になっているイランを中心に、アラブ首長国連邦や中央アジアのトルクメニスタンに行ってきたのです。
今年、2016年に入って中東で起こったことは、皆さまにとっても私にとっても、ひいては世界史の記憶の中にも残るかもしれない一連の事件でした。
全ては1月2日に始まっています。サウジアラビア王国は、それまで国内において治安を乱し、政府や王室を転覆しようとしたという容疑で有罪にしていたシーア派の指導者、アヤトラ・ニムル・バクル・アル・ニムル(通称ニムル師)を、他の3人のシーア派教徒と一緒に処刑しました。王制と体制の転覆容疑のためであることは、すでに申した通りです。
このため、シーア派の大国であるイランの一部国民が激高し、テヘランのサウジアラビア大使館や、北東部にあるマシュハドの領事館を襲撃し、焼き討ちするという事件が起きました。結果的に、サウジアラビア王国がイラン・イスラム共和国に対して国交の断絶を表明する事態に至ったことは、ご記憶にも新しいかと思います。
●サウジ・イランの断交は戦争につながるのか
これに続いて、アラブ連盟の加盟国のうちバーレーンとスーダンもイランとの断交を表明。私が訪問したアラブ首長国連邦とカタールは、イランから大使を召還し、外交レベルを低くするという形で抗議の挙に出たわけです。
これは正月早々、誠に慌ただしい動きでした。通常、国交断絶は、大使を任国から呼び返す(大使召還)手続きを経て実施されますが、今回は異例といっていい早さでした。普通の手順は、大使の召還を経て最後通牒、その後に戦争という流れになるのですが、サウジアラビアは一挙に国交断絶という挙に出たわけです。
もっとも、サウジアラビアはイランと正面から戦争する意志を固めたわけではないようです。例えば、メッカとメディナという二つの聖地に対するシーア派教徒の巡礼は認めることを表明しているからです。
また、イラン側も1月下旬以降、「パニックに陥らず、冷静になるように」とサウジアラビアに呼びかけ、「イランとの関係を回復することは、サウジアラビアの未来を明るくする材料だ」と、イランらしい言い方で関係修復を図るサインを送っています。
●イラン国内で見た市民感情と空港のチェック態勢
1月の6日から18日まで訪問したイランやアラブ首長国連邦などでは、日本とは違って、それなりに厳しい政治状況と市民の緊張感を見ることもできました。
例えば、イランのエスファハーンでは、町の中や川にかかる橋の上などで、イランの男性市民たちがサウジアラビア市民と思われる男性を呼び止め、4、5人で論争を挑んでいる風景を見かけました。
聞いていると、いずれの場合も「イランに対するサウジアラビアの不法行為が先だった。イランはそれに対応したにすぎない」という因果関係による議論を吹っかけていたようでした。
私個人は、行きはドバイからテヘランに入りましたが、帰りはテヘランーエスファハーン経由で、シーラーズ空港からドバイに戻ってきました。
イランでは、空港の国際線のチェックは基本的に革命防衛隊に委ねられています。この時も、私の持ち込み荷物の中で機械とおぼしきものは、改めて全部をエックス線にかけ直されましたし、それだけではすみませんでした。
革命防衛隊の将校が私を別のカウンターに呼び、一つ一つの名称と用途、目的を確認するために、「これは何だ」「どういう目的だ」と、やや厳しめの質問を浴びせかけてきたのです。その対応はもちろん紳士的ではあったものの、機械によるチェックを再度行ったり、さまざまな質問を浴びせかけたりといった姿勢は、出入国管理の厳しさで知られるイスラエルを彷彿させるような厳しさでした。
●テロ多発の中から浮かぶ「イスラームの悲劇」
中東に滞在している間に、世界の各地でテロ事件が発生しました。死者はイスタンブールの旧市街で10人、ジャカルタの中心部で4人、ブルキナファソ(元オートボルタ)の首都ワガドゥグでは29人も出たとの報道を、日々聞くことになりました。
帰国後も情勢は変わりません。アフガニスタンやパキスタンなど両国でテロ事件が続いたほか、それに連座する人々が現れています。また、マレーシアでもテロ未遂事件が発覚するといった緊張状態が最近まで続いているのは、皆さんご案内の通りです。
中東に滞在中、こうした悲報を聞くたびに私は切ない思いがし、犠牲者の家族の悲しみを思うにつけて、脳裏に浮かんでくるのは「イスラームの悲劇」という言葉です。
イスタンブールとジャカルタの事件では、...
(山内昌之著、PHP新書)