●法の支配を徹底して無視するイラン急進派
皆さん、こんにちは。
イラン・イスラム共和国を考える際、ルーホッラー・ホメイニーの存在は絶対的なものがありますが、ホメイニー時代のアメリカ大使館人質事件からサウジアラビア大使館焼き討ちに至るまで共通しているのは、率直に申しまして、法の支配に対する無知か、あるいは、法の支配ということを知っていても無視するか、そのいずれかであるかと思われます。この人たちが仮に一部であるにしても、イランの国内において十二分な追及を受けずにこうした行為ができたということは、期せずして、私はウラジーミル・レーニンの『国家と革命』を思い出します。この書にある有名な表現に「革命はそれ自体の法を作る」という考えがありますが、それを実践しているのが、今回のようなイランの極端な潮流ではないかと思われます。しかも、イラン人の急進派は、レーニンや初代の外務大臣、外務人民委員を務めたレフ・トロツキーよりも徹底している節もあります。
ソビエトロシアは、1918年のブレスト=リトフスク条約で、ドイツとの国交を正常化しました。その後、この革命政府が帝国新政府と結んだ条約を批判する人々は、これをとんでもないことだと批判しますが、これは口だけにとどまりませんでした。同じくボリシェヴィキと連立政府を組んでいた左翼SL(SL左派)という政党の党員が、ドイツ帝国大使であるミルバッハ伯爵を暗殺するという、思いがけない事件が起こりました。その時、レーニンは間髪を入れずドイツに謝罪したのみならず、左翼SLとの連立を解消し、その組織の解体に乗り出しました。
イランの方にもっと似ているとすれば、ソビエトロシアよりもむしろ文化大革命期の中国ではないかと思います。外国から大使を召還し、正常な外交機能を停止させただけではなく、紅衛兵は外国の高官に乱暴、狼藉をはたらいてやまなかったことは、よく知られています。
●文明国家の伝統と革命の情念が併存するイラン
イランでは、すこぶる成熟した文明国家の伝統が一方にあり、他方においてホメイニーがあおった革命の情念をくすぶるような革命の熾火というものがいまだに併存しているかのように思われます。2011年にテヘランのイギリス大使館がいわゆる暴徒によって襲撃され、書類が略奪されるという事件が起きました。当時のイランの外相アリー・アクバル・サレヒは、イギリスの外相ウィリアム・ヘイグに対して電話をかけて陳謝するとともに、こう述べたと伝えられています。「私は、この人物らが誰なのかを知らない。また、誰が大使館を略奪するために彼らを送ったのかも知らないのだ」と、こう述べました。この言は、率直に見えるかもしれません。そして、サレヒ外相は、現実にこの人物たちが誰なのかを知らなかったかもしれません。しかし、誰が彼らを送ったのかくらいは、知っているか、あるいは、想像がついたはずです。確実なのは、革命から40年後にテヘランやマシュハドのサウジアラビア公館が焼き討ちにあっても、誰も罪を問われず、罰も下されないという事実なのです。
私の市民感覚では、イランは歴史と文明を誇る堂々たる国家ですが、社会科学者として私が見るなら、革命まで『カイハーン』紙の編集主幹を務めたアミル・ターヘリの疑問にも多少は共感せざるを得ないのです。すなわち、「イランは、国内法や国際法を忠実に守る国民国家なのか。それとも、全ての法を超越する革命なのか」というものです。
●国際社会で信頼を得るには「分裂症」の克服が急務
イランの政府機構の内部にさえ、分裂症めいた二つの潮流があります。2月に選挙がイランで予定されていますが、確かなのは今回も前と同じように、選挙が近づくとどこかの外国と事を公然と構えるか、アメリカやヨーロッパの人間を捕虜や人質にとって、危機をあおりたてながら自己主張するというような流れがあるということ、今回のウィーン核合意や経済制裁の解除の後でさえ、そういうことが起きたという点に驚くのです。
また、理性的と目されるモハンマド・ジャヴァード・ザリーフ外相でさえ、ペルシャ湾に浮かぶ三つの島々をアラブ首長国連邦の間からイランがかつて取り、そして、首長国連邦との間にこの島々の問題をめぐって紛争が絶えない事実を認めようとしていません。また、国際司法裁判所での解決に委ねようともしていません。
しかし、実際に核協定の調印と制裁解除後は、こうは簡単にいかないと思います。いわゆる分裂症を克服して、中東各地で起きている国際イスラム革命につながる武装闘争への支援や、他国への軍事干渉をやめないと、イランは国際的に信頼される地域大国にはなりません。イランの政治威信や外交力は、中東の混乱やアナーキーに乗じて得られた革命的な成果です。そして、秩序と...