●サウジの国教ワッハーブ派は厳格なスンナ派の流れ
皆さん、こんにちは。
サウジアラビアという国のイスラム解釈は、大変特異なものがあります。サウジアラビアでは、いわゆるワッハーブ派という流れが国の宗教、国教となっています。そもそもワッハーブ派を国教とするサウジアラビアは、もともと今のアラビア半島の真ん中のナジュド地方にあるリヤド(サウジアラビアの現首都)に近いディルイーヤをかつて首都とした豪族、ムハンマド・ビン・サウードと、法学者であるムハンマド・ビン・アブドゥル・ワッハーブ、これがワッハーブという名の由来ですが、このサウード家とワッハーブ家という二つの家が、政治と宗教面で18世紀に同盟を組んだことに由来します。
ワッハーブ派は、18世紀のアラビア半島で、従来のスンナ派の法学解釈や、イスラム神秘主義、スーフィズムの慣行を全て否定し、7世紀のムハンマドとカリフの以降に表れた新奇な慣行を排斥しました。この新奇な慣行の全てをアラビア語でビドアと言い、直訳すると「イノベーション」という意味にも使われますが、このビドアとして排斥した点で、スンナ派の厳格化を求めた流れです。もちろん、スンナ派の厳格化を求め、全ての新しい現象をビドアとして排斥したわけですから、シーア派を認めるはずがありません。シーア派と対決する宿命にあるのが、このワッハーブ派であったと言えます。
ワッハーブ派は、現在のイスラム武装闘争主義とも言うべきIS(イスラム国)や、シリアのヌスラ戦線、その前のエジプトやシリアのムスリム同胞団、こうした人たちが本格的に刺激を受けたイスラム原理主義の古典的な潮流であったのです。これは、サラフ(先人)への原点回帰や、伝統の純化を強調するサラフィーヤ、サラフィー主義から出たものであります。
●禁欲主義と享楽主義の二重基準がイランの批判の的に
本来の復古的な禁欲主義は、現在のサウジアラビアの王族やエリートの世界的にもよく知られている海外における消費的な享楽主義や、対米同盟路線といった外交には少しも痕跡をとどめていません。しかし、このワッハーブ派のすこぶる復古的な禁欲主義は、部族や市民に対する厳格なイスラム法の適用、窃盗や姦通に対する罪というのは非常に厳しく、手を切り落とされる、あるいは、石打の刑を受けるといったような、イスラム法の厳格な適用に継承されているわけです。
サウジアラビアの政治体制は、このように建前と本音、あるいは、二重基準からなっていまして、こういう二重基準、特にエリートや王族たちの非イスラム的な消費主義、享楽主義、こういう点は、ルーホッラー・ホメイニー以降のシーア派のイランから現代に至るまで、大きく揺さぶりをかけられる根拠にもなっています。
●イランの脅威に対抗-サウジの糾合でGCC結成
ワッハーブ派は、19世紀初頭に、シーア派の多いイラクのカルバラを攻略したこともあります。しかし、1960年代と70年代には、エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領や、イラクとシリアのバース党に見られる反アラブ主義と、大アラブナショナリズムに対抗して、パフラヴィー朝のイラン、レザー・シャー・パフラヴィー国王とワッハーブ派を信奉するサウジアラビア王国が同盟を組み、そして、協力関係を組んだ時期があります。実際に、アメリカのリチャード・ニクソン大統領の時の「ニクソン・ドクトリン」は、この二つの大国を湾岸の安全保障を守る大きな二つの柱として重視したもので、その盾となったのが、バーレーンに司令部を置くアメリカ軍第5艦隊にほかなりません。
しかし、全てを変えたのは、1979年のイラン・イスラム革命、ホメイニー革命でした。国王、レザー・シャー・パフラヴィーを倒したホメイニーは、アメリカとヨーロッパ、米欧の支えるアラブのスンナ派君主国に住む、例えば、ペルシャ湾岸沿いの君主国家、アラブ首長国連邦やサウジアラビア、あるいは、カタール、バーレーンといったような国々のシーア派教徒を救うという名分のもとに、国際シーア派革命、あるいは、国際イスラム革命の輸出を企てました。サウジアラビアは、これにすぐ対抗して、1981年にクウェート、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦UAE、オマーンを糾合して、湾岸協力会議(GCC)を結成しました。イランの脅威に対抗してつくられたのが、今のGCCだということを、もう一度確認しておきましょう。
●レンティア国家としての存在に赤信号!のサウジ
こうしたGCCに共通するのは、レンティア国家として国民の関心を得ることで、統治の正当性を得ようとした点です。このレンティア国家とは何か。それは、石油や天然ガスをはじめ地下資源など非稼得性の収入、すなわち、具体的に働いてその労働の対価を稼いでいる...