●「消耗品か生物か」という根本的価値観の違い
山の人たちの価値観について、割り箸を例に取りましょう。今、割り箸というのは、どうなのでしょう。一時期は悪者になっていて、「割り箸は使わないで、マイ箸を持ち歩きましょう」と言われていました。割り箸用に木を伐るのは良くないと言われたのですが、実は余った木でつくる割り箸というものがあるのです。
日本の割り箸は、そのために木を伐るわけではありません。先ほど見た柱や梁を伐り出した後、丸い部分が残るわけです。それを捨てるのが嫌なので、山の人たちは別にもうかりもしないのに一生懸命箸に加工する。
植えてから50年間、一生懸命成長した木なのに、一度も役に立たないまま燃やすのはかわいそうだ。せめて一回は役に立ってもらおうというので、ちまちまと割り箸をつくっている。
ところが、そんな割り箸まで悪者になった時代があったために、割り箸をつくっても売れなくなってしまった。山の人から見ると、別にもうけのためではなく、せっかく育てた木を一度も日の目を見せずに捨てるのはもったいないという気持ちです。
バイオマス・エネルギーについても、いま同じ問題が浮上しています。何かに使った後にバイオマスとして使ってくれればいいのに、最近は丸太のまますぐバイオマスにされて、燃やす方の燃料に使われる。昔のバイオエタノールと同じです。トウモロコシを食べないで、エタノールにする。そこには、何か矛盾があります。
●手抜きの文化と「磨けばよくなる」文化
山の人たちの価値観はそうではありません。せっかく育った木なのだから、とことん使ってあげようと考えている。これは、実は無駄なことをしているのですが、結局なぜ木造がうまくいかないかの原因もそこにあります。
木造建築は世につれて進化してきましたが、その進化とは効率性や合理性、もっと言えば経済性のことです。「メンテナンスフリー」などという言葉もあるぐらいで、あまり何も手をかけなくてもいい方向に進む。要は、手抜きの文化です。
しかし、本来の木造の魅力というものは、手が掛かります。例えばこの会場の机、ちょっとこの辺りのメンテナンスが悪いですね。でも、こういうものは磨けば磨くほどきれいになる。ところが放置していると汚くなるので、手が掛かる。
手を掛ければよくなるのだから、それを楽しむ。そのためには、先ほど言ったように、世の中に余った時間ができるようになる必要があります。時間があれば、手の掛かる面倒くさいことも楽しいことになるかもしれないわけです。
そういう意味で言うと、欠点のある木材というのは、むしろメンテナンスをすることによってその魅力が増されていくわけです。それを面倒くさいと思うか楽しいと思うかは、結局人頼みということです。
●「箱物行政」の建物が地元に愛されない理由
今の「箱物行政」がよく悪者になるのは、鉄筋コンクリートで造ると、自分たちでメンテナンスできなくなるからです。
東京のゼネコンが地方にやって来て、建物を造る。改修しようというときには、また来る。すると、よその人が改修してくれると思っているから、地元の人たちは自分では何もしない。愛着なんて、湧くわけがない。でも、木造校舎みたいに、雑巾掛けをするとピカピカになっていくようだと、無駄なぐらい掃除をし始めます。
そういうことも、やはり大事なのではないか。
今までの工業製品は、なるべくメンテナンスフリーに、手を加えずに維持しようとやってきましたが、逆に手を加えることで魅力は増すということを、これからは考えていかなければいけないのだろうと思います。
ただ、それは今までの価値観とは全く違う世界なので、まずそれが認められるかどうかということが、これから都市に木造が増えるかどうかを決めていく。やはり、もう少し暇になってくれないと、困るのです。
そして、先ほども言ったように、山にはいろいろな木があります。使い方も、都市に大きな建築を造りましょうということから小さな家具まで、何でもいいわけです。
●木造ビルで、山に思いを馳せる時間の大切さ
ですから、こういう講演会などで興味を持ってもらうことで、次第に山は豊かになっていきます。さらに興味が深まっていくと、大体は休みの日に山へ行って木を見たくなる。実際に木を伐りに行ったりするわけです。
そうした行動を誘発するために、やはり街中にシンボリックなビルが一つは欲しい。山のことや木のことを考えるための場です。そこへ行くと、「なぜ、この建物はビルなのに木造でできたのだろう?」「いや、日本の森林資源はこういう状態でね・・・」という話になるかもしれません。
地方にいる人は、目の前に山があるから、その山がどういう状況にあるかを心配した...