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聖徳太子は「皇太子」だったことを忘れてはならない

法隆寺は聖徳太子と共にあり(2)神と仏の二人三脚体制

大野玄妙
法隆寺第129世住職、聖徳宗第6代管長
情報・テキスト
釈迦三尊像
聖徳太子は仏教を日本に取り入れ、そして広めた。そう教えられてきた聖徳太子像に対し、法隆寺管長・大野玄妙氏は注意を促す。聖徳太子について考える上でまず重要なのは、彼が皇太子であることだ。すなわち彼本来の仕事は、日本古来の神々を祀ることだった。だとすれば、当時「仏」と「神」はいかなる関係にあったのか。(全8話中第2話)
時間:13:20
収録日:2016/03/09
追加日:2016/10/08
≪全文≫

●忘れてはいけない「皇太子・聖徳太子」


 前置きはこの辺にしましょう。さて、聖徳太子さんは仏教を取り入れられたということですが、皆さんの印象はどうでしょうか。聖徳太子さんという名前を聞いたときに、どういう人物なのか、いくつか項目を挙げていくと、ある人は政治家である、ある人は日本の文化の礎の人である、またある人は最初に仏教を研究した人であるなど、いろいろな言い方がされます。また、大工さんのような職人の間では、そういう職業や技術を伝えた神様として祀られています。このように聖徳太子には、非常にいろいろな角度から信仰され、また慕われているという面があります。

 ところが、その中でも一番多いのは、やはり仏教との関わりだろうと思います。しかしここで実は、一つ大きなことを見逃しています。何かといいますと、聖徳太子さんが皇太子だったということです。そのことは、絶対に忘れてはいけないことなのです。皇太子さんを含め、いわゆる皇室の方々の仕事とは何かということです。これが非常に重要なことです。


●伝来当初、仏と神は「同列の存在」だった


 この点は、皆さんに配った資料の1番に載っています。これは、百済の聖明王が日本に仏教を伝え、そして「仏教を受け入れなさい」ということを手紙に書いて送ってきた時のことです。この欽明天皇は、側近の人たちに「どうしようか」と相談をしました。この時、この問題に対して賛成をしたのが蘇我氏です。そして反対をしたのは、物部氏と中臣氏です。資料にあるのは、物部尾輿と中臣鎌子という二人の人物が話をした際の内容です。読んでみましょう。

 「我が国家の、天下に王とましますは、恒に天地社稷の百八十神を以って、春夏秋冬、祭拝りたまうことを事とす。方に今改めて蕃神(あたしかみ)を拝みたまわば、恐るらくは国神の怒を致したまわむ」

 ここではっきりと書かれています。我が国の王とまします、天下に王とまします者は何をするか。それは、天地、あるいは社稷、つまり天神さん、天の神様、国の神様といった百八十神(180にも及ぶ多くの神々)を、春夏秋冬、年がら年中、一年を通じてお祀りすること。これが仕事です。

 そしていま改めて、ここで蕃神(これはお隣の神様です)を拝みたまわば、お隣の神様を拝んでしまったら、この国の神様がお怒りになるだろう。物部氏と中臣氏は、こういう理由で反対をしたのです。

 ここで蕃神と書かれているように、仏教自体は非常に早くから、日本に伝わってはいたのです。仏教は渡来人によって伝えられて、渡来系の人々は仏教信仰していたのです。『扶桑略記』に載っている文章によれば、司馬達等という人(一般的には朝鮮の人といわれていますが、恐らく中国の人だと思います)が、朝鮮半島を経由して日本に来ました。それが西暦522年です。その年に来た際、その人は仏教信仰していたと記されています。そのくらい早くから、日本に渡来した人々の間では仏教信仰されていました。

 そうすると、当時の日本人から見て、仏教はどのように見えていたか。これは恐らく、日本でいろいろな神々をお祀りする場合の神様とほとんど違わない存在、ただ単純にお隣でお祀りされている神様ぐらいにしか考えていなかったように思います。何もこれは、日本だけの事情ではありません。日本では、蕃神、あるいは仏神は「仏」という神だとされています。あるいは他国神、他の国の神、あるいは他神であると書かれています。

 これは中国でも同じです。中国に仏教が伝わった当時も、日本の場合と同じようなことがさまざまな書物に出てきます。「仏神」、仏という神です。あるいは、ここに書いてあるように、戎(えびす)という書いて「戎神」です。それから胡の神様である「胡神」。胡は胡族、中央アジアの人々のことを指します。先ほど出た戎神は、中国から見た呼び名です。中国は周囲にあるそれぞれの国を蔑視しており、北は狄、西は戎、東は夷、そして南は蛮と呼んでいました。中国でも、仏教が伝わった頃は、教えといえるものは儒教だけで、その他には道教が民間信仰の中で伝わっていました。

 この儒教が中国で始まったといわれるのは、大体4世紀に入ってからです。当然この頃は、民間の中で信仰が行われていましたが、そこで信じられているさまざまな神様と大して違わない存在として、仏教は受け止められたのです。その一つの証拠を、ここで羅列しています。


●古代日本では、仏と神は共に尊重されていた


 2番目です。ここでは「向原の家を捨い淨めて寺となす」と書いてあります。百済の王が仏教を伝えた時、その送られた仏さんを誰がどう扱うのかが問題になりますね。そこで、(仏教の受け入れに)賛成を唱えた蘇我にそれを渡し、「お前さんがお祀りしなされ」と言ったわけです。そのためそ...
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