●法隆寺にある仏像のルーツは中国にあった
先ほど言いましたように、(法隆寺では)聖徳太子さんの姿に合わせて像をつくっています。だから、聖徳太子さん自身をお祀りしていることになります。これはもう分かりますね。では、そういうものの考え方のルーツが一体どこにあるのかということを考えなければならない。
一つには、中国の雲崗の石窟、大同という所です。これは北魏という国にありました。北魏という国は、太武帝(たいぶてい)の時に仏教の大弾圧を行っています。その後、孫の文成帝(ぶんせいてい)が復仏させました。仏教を復興させたのです。その孫が復仏した理由は、お父さん(拓跋晃(たくばつこう)という人です)が一生懸命に、父である太武帝の所業を治めたり、あるいは仏教徒として廃仏で苦しめられている人たちをそっと裏から助けたりして、何とか父の所業をやめさせようと思った人だったからです。残念ながらこのお父さんは、太武帝が亡くなるのとほぼ同じ頃に病死してしまいます。そしてその時に、自分の子どもである文成帝に遺言を残し、おじいさんのやったことの滅罪をし、仏教の復仏をしてほしいという依頼をします。これを受けて、文成帝はそれを実行しました。
その時に平城(当時の北魏の都です)に五級の大寺を建てます。この五級の大寺とは、いわゆる五重塔のことです。中国では、五「重」と言わずに「級」と言います。級というのは階と同じです。だから5段の塔ですね。七級といったら7段の塔ということになります。イメージとしてはお分かりいただけると思います。日本の塔は、雨が多いために屋根も広いですが、向こうはそうでもないので、「段」と読まれていてもおかしくはないのです。
文成帝は、先の五帝の供養、そしておじいさんの滅罪のために、五つの丈六の釈迦像をつくったと言われています。五帝のため、最初は道武帝、2番目が明元帝、3番目が太武帝、4番目に自分の父親、後に贈り名をされて、拓跋晃は景穆帝です。そして5番目は自分、文成帝なのです。要するに生きている間から、皇帝が自分自身のお釈迦さんをつくったというわけですね。こういう物の考え方が、当時の中国にはありました。
●表側で伝わる歴史、裏側で伝わる歴史
またその少し後になりますが、北周の時代には武帝という人が廃仏をします。それを復仏をしたのが、隋の文帝です。北周を倒して隋を興します。隋の文帝は、その時に復仏をします。北周の武帝が廃仏をした時の上表文、つまり、「そんなことはしないでください」と皇帝に対していさめる言葉が残っています。
その上表文の中に「皇帝は如来なり 王侯は菩薩なり」という言葉があります。何とまあ、そういう物の考え方をするのかと思いますが、ともかく非常に廃仏の動きの中で苦しい思いをしながら、(廃仏をしようとする)皇帝をなんとか持ち上げ、それをやめてもらおうという意思が働いた文章であると思います。
この考え方は、日本にも伝わります。ある意味では、表で伝わった部分と裏で伝わった部分とがあるのですね。表で伝わっていることとは別の伝わり方をしました。日本でも、現実におられる方や亡くなった方、そういう方を模して仏像をつくっていくという考え方があったわけです。
例えば、法華寺の観音さんが、光明皇后に合わせているといったことです。あるいは、奈良の大仏さんでも似たようなことが言われています。そういう流れは他にもあったということです。しかも中国では、後の時代まで残ります。皆さんもよくご存じの、龍門の石窟の大仏です。あれは中国では、則天武后を模したものだと言われています。
いずれにしてもそういう考え方は、中国では後代まで非常に長く続くのです。ではそうすると日本は、そういうやり方で仏像をつくっていったのかどうか。中国と同じようなやり方だったのですね。
理由の1点は、実際の人物の寸法に合わせてつくられたこと。もう1点、中国と非常によく似ていると思うのは、文成帝が自身の生存中につくらせていることです。ここで言いたいのは、このお釈迦さんは間違いなく、聖徳太子さんの生存中から造形のスタートを切っていたことが、この文章から分かるということです。そして、仏像をつくった止利仏師は、聖徳太子さんを知っていたということです。そういうことが言えるのではないかと思います。
●法隆寺は聖徳太子と共にある
いずれにしても法隆寺は、いつも聖徳太子さんと(関わっている)いうことです。宝物が今までたくさん残ってきていますが、それはどんな場合になってもわれわれはこれを自分たちの物とは考えていないからです。これらは全て聖徳太子さんの物です。全て、誰かが聖徳太子さんに下さった物です。だから、たとえボロボロになった物でも捨てられないのですね。そういう物が今にな...