●誰が焼失した法隆寺を再建したのか
さらにもう一つ、ここで重要なことがあります。「釋像の尺寸王身なるを造るべし」とあります。これは何を意味するのか。この金堂におられるお釈迦さんは、実は聖徳太子さんなのです。法隆寺でお祀りされている本堂に匹敵するものとは、金堂です。金堂のご本尊は、お釈迦さんの姿をした聖徳太子なのです。
同時にもう一つ、夢殿のご本尊も観音さんの姿をした聖徳太子です。つまり法隆寺は、全ての仏様が聖徳太子さんと関わっているのです。これが非常に重要なことです。法隆寺が、なぜ現在までこうやって残ってきたのか。これも、やはり本尊が聖徳太子であることが非常によく関わっていると思います。
ではそうすると、皆さんは不思議に思われることがあると思います。法隆寺は、お父さんの用明天皇のために、607年に建立されました。聖徳太子が推古天皇と建てたのです。ところが、Bの4番に書いているようにこの法隆寺は焼けてしまいます。「夏四月の癸卯の朔壬申、夜半之後に、法隆寺に災り。一屋も余ること無し。大雨ふり雷震る」とあります。要するに、天智天皇9年の670年に、法隆寺は全焼したと記されています。
その全焼してしまった法隆寺は、紛れもなくお父さんの用明天皇が自分のために造った法隆寺です。しかし現在の法隆寺は、そのお父さんが亡くなったのでその供養のためにその後も工事を続行し、そして亡くなった翌年にできたものです。それが、今の本尊になっています。
これが、法隆寺における大きなミステリーの一つになっています。670年に焼けた後、この法隆寺は一体いつごろ再建されたのでしょうか。この焼失の時に、お釈迦さまはどこにあったのだろう。このようにいろいろと問題が出てきます。
いずれにせよ、宗教的なものの言い方をするならば、ここで大きく法隆寺の生き方が変わったのです。それまでは、お父さんの病気平癒のためのお寺だったけれど、この像ができた時点以降、法隆寺は聖徳太子さんを敬賛し、供養する。そうした目的のため、そして聖徳太子の思想や理想を世の中に広めるためにある。それ以外にはないのです。このように寺の性格が変わったわけです。
●復興の貢献者1:貴族の女性たち
皆さんもよくご存知のように、643(皇極2)年、夢殿におられた聖徳太子さんの一族である上宮家が、蘇我入鹿の焼き討ちに遭い、上宮家は滅亡します。では一体誰が、法隆寺を再建したのでしょうか。その当時、法隆寺は上宮家の私寺です。最大の援助者が上宮家だったのに、それが滅亡します。では再建は誰がやったのでしょうか。再建はとても大変なことです。
一つの答えは、法隆寺が焼けてからも、恐らく一握りの人々は法隆寺に対する支援を続行していた、というものです。どういう人たちが続行していたのかといえば、その当時の女性たちです。
まずは、貴族の女性です。例えば、藤原不比等の奥さんである橘三千代、さらにその子どもである光明皇、そしてその孫である橘古那可智。こういう人たちが、法隆寺にかなりの寄進をされています。当然そういう人たちの力もあったでしょうし、何より旦那さんがいるわけですから、旦那さんの協力もあったと思います。しかし、国として、国を挙げて修復しているものではないわけです。
●復興の貢献者2:各地の寺
聖徳太子さんは三経義疏をつくったのに先立って、彼は勝鬘経と法華経を、推古天皇に講義しました。その時のお布施として出されたのが、播磨国の水田100町です。100町といっても数字が分かりにくいですが、寄進されて頂戴する水田とはどういうものでしょうか。奈良時代は、田んぼを持っていたとしても、その周囲はまだ開発されていないので荒れ地です。そういう荒れ地に、池を掘って灌漑をして開発すると、3代にわたって所有することができる、あるいは永久に所有することができるという法律が当時ありました。ですから、時代が下るにしたがって、荘園はどんどん広がり、大きくなっていきます。最終的には、300町くらいになるわけです。
土地を寄進されるとは、そういう状況を指しました。ところが聖徳太子さんは、そういう土地を自分のものにしなかったのです。その代わり、その土地を全て自分と関わりのあるお寺に再度ご寄進なさった。そういう土地が、聖徳太子が亡くなった時点で全国に残っていました。そうすると、寄進された人々は一体どういうことをしたか。当然、法隆寺に対する支援を行います。
一例として食封(じきふ)があります。これは、もっと後の時代になりますが。私ども法隆寺の食封の北限は、群馬県の高崎市です。その次が神奈川県の小田原市です。南に行くと、瀬戸内海一円のほとんどの県に(食封が)あります。
さらに荘蔵(しょうそう)と言われるものがあります。荘蔵は、荘園の荘に...