●1200年以上続く東大寺・修二会の行法
北河原と申します。今は東大寺の長老です。長老とは、簡単にいえば隠居の身であるということです。数年前まではそういうことでした。しかし私どもの寺は、名前こそ東の大きな寺といって大きいのですが、中身は小さいものですから、長老でも元気ならばこき使わないといけないということになりました。今はこの施設、東大寺総合文化センターの総長ということになっています。楽隠居といったら言葉は悪いですが、昔でしたら長老はそういう立場だったのですが、今はそういうわけにもいきません。これもしょうがないなということです。
実は私、今日は少し寝不足気味です。ご承知の通り、ただ今私どもの寺は、修二会(しゅにえ)、つまり、お水取りの行法(ぎょうぼう)の最中です。このお水取りの行法は、今年で1265回目を数えています。一度も途絶えずに、連続で1265回ということです。
東大寺の大仏さまが造られて開眼(かいげん)をされました。すなわち聖武天皇によって詔が出されて、発願されてできたわけです。その大仏さまが完成し、開眼法要の行われた年(天平勝宝4年)に、修二会の行法が始まり、今年で1265回目となるのです。
学者の方のお話によりますと、こういう形態で1265回も絶えずにずっと続いていることは、まず他に例がないのではないかということです。もっとも、もっと古くから始まり、一旦途絶えてまた復活したものはあるようですが、こうしてずっと続いているものはまず珍しいだろうと聞いています。
1265回も続いてくる間には、もちろん東大寺そのものの存亡の危機という時は、何回かありました。有名な話では、源平の戦いです。つい何年か前、大河ドラマは『平清盛』でした。あの平清盛の息子である平重衡(たいらのしげひら)によって、この南都、奈良は灰燼に帰すのです。東大寺も例外ではありませんでした。
ただ幸いに、現在、修二会の行法が行われている二月堂は被害に遭わなかったのです。そのような時であっても、この行法は続けています。ただ、さすがにその際には、衆議(しゅうぎ)で、「とても行を続けることは無理だろう。やめよう」と決めたそうなのです。しかし有志が集まって、せっかく先人が苦労して続けてきた行を、われわれの代で途絶えさせるわけにはいけないということになり、必要なものをかき集めて行をしたそうです。
戦国時代には、日本のあちこちに大名がたくさんおりました。その戦乱にも巻き込まれて、また灰燼に帰すことがありました。その際も、この行法は続けられてきたわけです。
●当時の日記が物語る、戦時中の修二会
最近では、第二次世界大戦の時です。この修二会の行法中には毎日日記をつけており、その昭和21年までの日記が、重要文化財になっています。まだ存命中で、実際にこの日記を書いたという人もいます。また、その日記に出てきて実際に行に入っていたという人もいます。
昭和19年の日記を見ると、この行法は3月1日から2週間やっており、(3月)5日に1人、それから(3月)7日に2人、召集令状が来て、行の途中で出征しています。そのため、この行中3人が欠けましたが最後まで行をしたという年もありました。実際にこの行を務めるのは、11人です。そのため、11人のうちの3人がいなくなっても行を続けたということなのです。
また、昭和20年の日記を見ると、多分それは新聞を読んで日記にしたためたのだと思いますが、13日に90機のB-29が襲来し、この上空を飛んで大阪へ向かっていったとあります。ちょうど大阪で大空襲があった時です。夜の行法の途中で、手水という手洗いの休憩があるのですが、その時に二月堂の本堂から外へ出たら、西の空、生駒山の向こうが真っ赤に染まっていた。つまりそれが、大空襲のあった日ということなのです。そういう時のことも、この日記には載っています。
そんな状況ですから、もちろん宵の松明など燃やすわけにいきません。お堂の外でのいろいろな松明を燃やすことは他にもあるのですが、それも一切使用できないということで、お堂の中だけ扉を閉めてやっていたらしいです。その日記には、そういう状況でも、練行衆一同、何の変更もなく、一致団結して無事に万行をしたということが書かれています。いずれにしても、そういうことを経ながら、今年で1265回を迎えたわけです。
●生きとし生けるものの安泰を願う修二会
この行法は、二月堂の御本尊である十一面観世音菩薩の前で、われわれが日頃意識するしないにかかわらず犯している罪や咎科、汚れ等々を悔過します。例えばわれわれは、生きていくために動物や植物の命を絶って生かせてもらっています。そういうことも含めて、われわれの言い方では「悔過(けが)」と言いますが、分かりやすくいえば懺悔で、その懺悔を十一面観世...