●菩薩の心が発揮されにくくなっている
前回、日本も昔は皆そうだったという言い方をしましたが、例えば阪神淡路大震災、あるいは東日本大震災の時、大勢のボランティアの方々が現地に行きました。そして、まったく関係のない方々に対して手を差し伸べられて、皆さまに心寄り添わせて一生懸命(活動を)やられていました。まさにあれが菩薩なのです。
いざというときには、そうやってと他者のために思いやり、慮り、慈しみの心を持ってよく手を差し伸べているのですが、最近の日本人は、以前と違って日常ではそういうことがあまりないと私は思います。
これは、例えとして良いかどうかは分かりませんが、最近、物騒な事件がよく起こります。例えば、2階で殺人事件があって、その家の近所の人に聞くと、「いや、普段あまり顔を合わせていないので、誰が住んでいたのか知らない。挨拶もあまりしたことがない」、あるいは「隣で何かあったけれども、普段あまり顔を合わせてもいないし、話もしたことない」というコメントが結構出てきます。
他にも、例えばお年寄りが孤独死していたという話をよく聞きます。お節介を焼く必要はないのですが、せめて普段から、ちょっとしたことでいいから、それこそ「こんにちは」とか「おはようございます」、あるいは「元気ですか」というぐらいのことでも十分なのです。そうやって、他者を慮るという心持ちが薄れているのではないかと、私は思います。
だからといって、もちろんまったく(そういう気持ちが)ないわけではありません。先ほども言ったように大震災のときには皆、一生懸命に他者に対して手を差し伸べているのです。もともとはあるにもかかわらず、普段はそれがあまり発揮されていないのです。
●自分に何も災いが降りかからないから、手を差し伸べない
実は私、ロータリークラブに入っているものですから、少し前までこの地区のガバナーをしていました。この辺りは2650地区といいまして、奈良、京都、滋賀、福井の4県が一つの地区です。そのガバナーをしている時のことです。ガバナーは、各クラブを公式訪問しないといけないものですから、車に乗せていただいて、あるクラブへ行く途中のことです。たまたま信号が赤になって、(車が)止まったのです。そうすると、対向車線の車ももちろん止まります。
その時、対向車線の歩道寄り側を、年配の女性が自...