●鎌倉時代以降も「一枝の草」の精神は維持された
東大寺は鎌倉時代に復興されたのに、戦国時代になってまた灰燼に帰すのです。ご承知のように、戦国時代には幾つもの大名があちこちにいましたが、その戦乱に巻き込まれます。中でも、三好・松永の乱で戦に巻き込まれ、東大寺は焼けてしまうのです。
すると、江戸時代に公慶上人という方が復興に携わります。資料に書いてあるように、この方も「一針一草を喜捨するは」という言い方をします。やはりこれも、微々たるものであっても良いということです。そういう表現の仕方をしました。
もちろん東大寺には、有力なところからの勧進なり喜捨なりもありますが、こうやって大勢の人たちの知識や勧進を集めて大仏さまを造られ、そして復興もされてきたのです。皆さまの中でご存知の方がいるか分かりませんが、近年でも、昭和大修理といって、大仏殿の屋根瓦の葺き替え工事をやりました。完成したのは、昭和55年です。その時も、内外を問わず大勢の方々に、ご協力をいただいています。それもやはり、大勢の方々との力を結集してやり遂げるという、聖武天皇からの精神を引き継いできたからなのです。
●当時の日本人の約半数が、東大寺建立に協力をした
ちなみに、聖武天皇が大仏さまを造られた時の知識の数、すなわち何人が携わったかが、東大寺の上院の「修中過去帳」に載っています。これは、修二会、お水取りの行法でも、毎年読み上げます。ただし、この修二会の行法中で過去帳が読み上げられるのは、5日と12日です。聖武天皇から始まり、そこからずっときて現代、平成まで書き込まれています。それを読み上げるのですね。
もちろん、それら全てを読んでいたのでは数時間では済みませんから、かなり早く読んでいく部分もありますし、箇所によっては飛ばし読みにもなります。そうでなかったら、とてもではないですが時間内に収まりません。非常に分厚いものですから。ただし飛ばし読みといっても、「これは」という人は必ず読まないといけないことになっています。それまで飛ばしてしまうわけにはいきません。
ここにも書いてありますように、その中に、材木の協力者、それから人夫やお金といったことが書いてあります。全部で約260万人です。奈良時代で、それだけの「知識」が協力したのです。260万人とは、当時の人口の約半数です。これを聞いたある国会議...