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「日没する処の天子」と書かれても煬帝が激怒しない理由

法隆寺は聖徳太子と共にあり(8)古代史の眺め方

大野玄妙
法隆寺第129世住職、聖徳宗第6代管長
情報・テキスト
「日没する処の天子」と書かれても、中国の皇帝は怒らなかった。その謎を解くには、この文言の前に書かれた部分を読解し、そして当時の国際情勢と突き合わせなければならない。法隆寺管長・大野玄妙氏が、学校では教えてくれない歴史の見方とその面白さを語った。(全8話中最終話)
時間:13:34
収録日:2016/03/09
追加日:2016/11/19
≪全文≫

●「日没する処の天子」は後世に生まれたエピソード


 中国の話をしましたので、それに関わる話をしましょう。お手元の資料のAの25番と26番を見てください。これは遣隋使を派遣した時の資料です。この資料は25番に、「秋七月戊申朔庚戌(ふみづきの つちのえさるのついたち かのえいぬのひ)。大禮小野臣妹子遣於大唐(だいらい をののおみいもこをもろこしにつかはす)」。この当時はもう隋から唐ではないのですが、こういう風に表現されています。恐らくそういう風に書いてしまったのでしょうね。『日本書紀』は奈良時代に書かれているわけですから、当然そういう風に書いたのでしょう。そして「以鞍作福利爲通事(くらつくりのふくりをもっておさとす)」。鞍作りの福利は通訳として付いていったわけです。そういう記事が載っています。

 その次です。いま取り上げた中国の文章の中で、皆さんが一番よく知っておられるのは、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(ひ いずるところのてんし しょを ひをぼっするところのてんしにいたす つつがなきやいなや)」という部分ですね。しかし実はこの部分は、日本のある時期に、これだけを抜き出して国粋的な形で利用された文章なのですね。その前にこれだけの文章が付いているということです。このことを理解していただきたいと思います。

 そこでその前の部分を読んでみます。「大業3年」、これは隋の大業3年です。「其王多利思比孤遣使朝貢(そのおう たりしひこ つかいをつかわしてちょうこうす)」。「使者曰(いわく)」、「聞海西の菩薩天子重興佛法(かいせいのぼさつてんし かさねてぶっきょうをおこすときく)」と読んでもいいですし、「聞く」というのを先に読んでいっても構いません。どちらもございます。「故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法(ゆえにつかわしてちょうはいせしめて かねてしゃもんすうじゅうにんきたりて ぶっぽうをまなぶ)」と。「其國書曰(そのこくしょにいわく) 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」という文章になっています。

 この中で非常に重要視されるのは、まず一つ、隋の皇帝が怒るはずがない文章がこの中に含まれていることです。それは何かといいますと、「海西の菩薩天子」です。皇帝のことを菩薩天子だと言っているのです。


●中国皇帝が本当に激怒したかは疑わしい


 そして「重ねて佛法を興す」。これは、その当時の中国の事情を非常によく知っているということです。私たち日本は非常に遠い国で、それまでは国交も行き来もないような国だから、中国のことは分かっていないだろうと思うけれど、とんでもない。もうほとんど支障がないくらい早くから中国の情報は入っていた。こういうことが言えるかと思います。

 どういうことか。先ほど述べたように、2回目の廃仏が北周の武帝によって行われました。そしてその北周の武帝が、隋の文帝によって倒されます。隋の文帝は、いわゆる北周の外戚の将軍です。そういう人が隋を興した。そして仏教を復仏したのです。そのことを、日本の国もよく知っていたわけです。ですから隋の都のことを、大興城と言えたのです。大きく興す。何を興したか。仏教を興したのです。大興善寺は、その時最初に建てられたお寺ですね。国中にお寺を建てて仏教を復興したのです。それが隋の文帝のやったことです。その業績を前提にして、先ほどのようなことを言っているわけです。

 そして、「故に遣わして朝拜せしめる」。残念ながらこの時、隋の文帝は息子の煬帝に殺されている。そして煬帝の代になっていました。それくらいの非常に短い間隔です。それなのに、中国の事情を理解していた。しかし煬帝に替わっていたことは知らなかったということです。それが、ここから見て取れます。

 そして、その遣隋使の目的です。国交を樹立しようなどということは二の次であり、一番重要なことはここです。「兼ねて沙門數十人來たって佛法を學ぶ」と。つまり、日本から留学して中国の文化を取り入れたいということです。簡単に言えば、盗みたいということです。頂戴しようということです。これが目的です。そしてこの目的は、完全に実行されました。ですから、果たして煬帝が本当に怒ったかどうかも、ある程度疑問視する必要があるわけです。


●中国が日本の申し出を断れなかった国際的理由


 同時にもう一つ、煬帝が日本の要請を受け入れなければならなかった背景には、その当時の世界情勢があります。それは何かと言えば、高句麗の存在です。その当時、高句麗は非常に強い国でした。隋の煬帝は、何とか高句麗を手中に収めたいと思い、二度も戦争をしています。そして二度とも負けて帰っています。

 さらに運河の問題です。煬帝の運河建設は、非常に大きな実績ではありましたが、同時に国民を苦しめていたということです。その...
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