●「日没する処の天子」は後世に生まれたエピソード
中国の話をしましたので、それに関わる話をしましょう。お手元の資料のAの25番と26番を見てください。これは遣隋使を派遣した時の資料です。この資料は25番に、「秋七月戊申朔庚戌(ふみづきの つちのえさるのついたち かのえいぬのひ)。大禮小野臣妹子遣於大唐(だいらい をののおみいもこをもろこしにつかはす)」。この当時はもう隋から唐ではないのですが、こういう風に表現されています。恐らくそういう風に書いてしまったのでしょうね。『日本書紀』は奈良時代に書かれているわけですから、当然そういう風に書いたのでしょう。そして「以鞍作福利爲通事(くらつくりのふくりをもっておさとす)」。鞍作りの福利は通訳として付いていったわけです。そういう記事が載っています。
その次です。いま取り上げた中国の文章の中で、皆さんが一番よく知っておられるのは、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(ひ いずるところのてんし しょを ひをぼっするところのてんしにいたす つつがなきやいなや)」という部分ですね。しかし実はこの部分は、日本のある時期に、これだけを抜き出して国粋的な形で利用された文章なのですね。その前にこれだけの文章が付いているということです。このことを理解していただきたいと思います。
そこでその前の部分を読んでみます。「大業3年」、これは隋の大業3年です。「其王多利思比孤遣使朝貢(そのおう たりしひこ つかいをつかわしてちょうこうす)」。「使者曰(いわく)」、「聞海西の菩薩天子重興佛法(かいせいのぼさつてんし かさねてぶっきょうをおこすときく)」と読んでもいいですし、「聞く」というのを先に読んでいっても構いません。どちらもございます。「故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法(ゆえにつかわしてちょうはいせしめて かねてしゃもんすうじゅうにんきたりて ぶっぽうをまなぶ)」と。「其國書曰(そのこくしょにいわく) 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」という文章になっています。
この中で非常に重要視されるのは、まず一つ、隋の皇帝が怒るはずがない文章がこの中に含まれていることです。それは何かといいますと、「海西の菩薩天子」です。皇帝のことを菩薩天子だと言っているのです。
●中国皇帝が本当に激怒したかは疑わしい
そして「重ねて佛法を興す」。これは、その当...