●ローマを救った英雄・スキピオ
カンナエの戦いから十数年たち、コルネリウス・スキピオという青年がローマ軍を指揮します。今度はこのザマという場所で、202年にカルタゴを打ち負かしました。今の地域で言えばここはチュニジアですから、ローマ軍からすればアウェーの戦いになります。それにもかかわらずスキピオは勝利を収め、やがてカルタゴ軍は、ここで大きな敗北を喫することになります。
このスキピオは、非常に精悍(せいかん)な顔をしていた人物です。ある意味ではハンニバルに脅かされていたローマ軍を救った、救国の英雄と言っていい人物です。その彼が征服をしていく過程で、ちょっとしたエピソードが残っています。
カルタゴはイベリア半島に勢力を張っていましたから、そのイベリア半島の戦いで、スキピオは首尾よくその連中を打倒しました。そして、カルタゴを支援していた部族たちを征服した時に、その部族の娘で、目を見張るほどの美貌の女性がいました。古代の戦争などというのは、意中の女性がいれば、戦争に勝った方の武将が自分のところに引き連れてきても何ら非難されることはなく、それが当たり前のように考えられていました。しかしスキピオは、そんなことはしなかった。婚約者がいたこの娘をその婚約者の元に返してやり、さらに両親から身代金として提供されたお金を、結婚の祝儀として返してあげるという、非常なる温情を示します。(スキピオの自制)
スキピオには、もちろん計算があります。こうした経緯を見て、かつてカルタゴに味方していた部族たちは、スキピオの魅力に惹かれてローマ軍を支援するようになっていくだろうという計算があったのでしょう。そういう人物として、救国の英雄の一人でいるわけです。
●スキピオを引きずり降ろした嫉妬深きカトー
しかし、一方で大カトーという人がいます。この人は非常に国粋主義者の人物で、スキピオがもともと好きではありませんでした。大きな対立点として、新しい文化への対応があります。新しい文化が入ってくる場合、ローマにとっての新しい文化、先進文化とはギリシャです。ギリシャの文化に対して、それを積極的に取り入れようとしたのがスキピオ系であり、この大スキピオもそうでした。だから、カトーという人物からすれば、スキピオなどは「ギリシャかぶれ」だと言えます。日本でなぞらえれば、明治の頃にヨーロッパやアメリカのまねをしていた鹿鳴館に出入りしているような連中にしか見えない。
当然日本でも、明治の後半になってくると、そういうことに対する反動で国粋主義的な動きが出てきましたが、ローマの場合も、ギリシャとの関わりの中で、それが起こります。だからカトーは、スキピオがもう大嫌いです。さらにカトーという人は、人物的には有能で清廉潔白な人物でしたが、同時に「道徳の番人」を自負したぐらい国粋主義者でもありました。そのためどうしても、スキピオに対する嫉妬心を抑えきれない。そこで、「スキピオは救国の英雄だから、英雄に祭り上げられており、もしかしたら独裁者になるかもしれない」といったような危険を言い触らします。結局スキピオは、ある時期に政界から身を退いてしまうことになります。彼はローマから去り、もう二度とローマには帰ってこないというぐらいのことになってしまう。
それから、これは全くの余談になりますが、このザマの戦いは、カルタゴとローマの関係でいくと、決定的にローマがカルタゴを倒した戦争です。その後、第3回ポエニ戦争がありますが、ローマとカルタゴの戦いで決定的な差がついたのは、このザマの戦いです。この時、ユーラシア大陸の東の方を見ると、項羽と劉邦が戦った垓下(がいか)の戦いが同じ年にあります。面白いことに、紀元前202年にはローマ帝国が帝国らしい姿で登場してくることになると同時に、東の方では漢帝国、そしていわゆる世界帝国と言っていいものが出てきた。お互いは全く関係ないのに、なぜそういうことになるのだろうという意味で、世界史を考える上では非常に面白いテーマではないかと思います。
●自ら潔く権力の座から引退したスッラ
その時代のローマは共和政国家だったのですが、一連の過程の中で、いろいろな英雄たちが出てきます。これは、紀元前1世紀前半の時期に活躍したスッラという人物です。彼は、ガイウス・マリウスと対立していました。マリウスは民衆派で、スッラは貴族派です。このマリウスとスッラの対立、つまり民衆派と貴族派の対立が起こり、この段階では最終的に、スッラが勝利を収めます。
この人物は、非常に謎に包まれたところがありましたが、政権を把握して3年ほどで辞めてしまいます。自分で引退するのです。ローマの大きな歴史の中で、スッラはまだ皇帝が出てこない時期の人物です。しかし彼は独裁者的な人物になり、そ...
(紀元前138年 - 紀元前78年)