●比べる「相対論」から、見極める「陰陽論」へ
老荘思想の説くところをお話しするのに、非常に重要な部分が「陰陽論」です。全てを陰陽で見るということですが、冒頭の章から二つ目に、次のくだりがございます。
「天下皆(てんかみな)美の美たるを知る、斯(こ)れ惡(あく)のみ」
「これは美しい」と人が言うときには、何かそれより「醜い」ものを基準として言っているのではないか。もっと美しいものが出てきたらどうするのかを問うているのです。つまり、比較対象のある「相対論」として見るのはよくない。「多い・少ない」「難しい・易しい」など、全て物事を相対論で見るときには、そのものの本質を見失っている、と言っているわけです。
では、「誰かに比べてこの人は…」という見方をやめたらどう見るのか。人間にはその人の個別の良さがたくさんあるのだから、その人なりの良さを見る。松林などに行かれ、松を一本一本丁寧にご覧になると、一つとして同じ枝ぶりはありません。それと同様に、人間は地球上に65億人いると言われていますが、何もかも全て同じという人はいません。
万物を生んだのが「道」だとすると、道はそこまで「個性」を重視しているというわけです。相対論は、個性を木っ端微塵に台無しにします。個性をよく見ていくことが重要であるというのが陰陽論です。
●人間の美しさと汚さをともに受け入れる
「美の美たるを知る」の前にある文章は、どうでしょうか。
「常無(じょうむ)は以て其の妙を觀(み)んと欲し、常有は以て其の徼を觀んと欲す」
無欲になると「妙(みょう)」が見えてくる。この妙とは、微妙とか「妙なる調べ」の妙(たえ)であり、無欲のときには人間の非常に崇高なところが見えるという。
ところが有欲、すなわち欲を持った瞬間に、「徼(きょう)」が見える。徼とは何かというと、直接的にはカオス(混沌)という意味で、欲望の渦巻く部分を指しています。
人間というものは、妙だけでは成り立たないし、徼だけでも成り立たない。妙があれば必ず徼がある。つまり人間は、非常に美しい善良な部分も持っているけれど、ものすごく欲深く醜いところもある。そういうことを承知して人間と付き合うことが重要なのだということです。
よく「あんなにいい人だと思っていたのに、どうして?」といった話を聞きますが、25歳の時から陰陽論で生きている私は、そのような人間の見方は全くしていません。私自身もそうであるように、人間には美しいところもあれば、当然に汚らしい部分もある。それを承知しているからこそ、なるべくきれいなところを増やそう、表そうとするのです。
●人間の心を「粗雑に」扱う方法とは
「美しいこと一点張り」という人もいなければ、こともないのです。それを承知して生きていくのが、ダイバーシティを生きる非常に重要なポイントです。誰にも皆、ずる賢いところもあれば、善良な部分もあるという見方をすることは、陰陽論で生きていく上でのまず最初の知恵だと言ってもいいと思います。それをもっと強調していくとどうなるか。老子は、一番丁寧に扱わなければいけないのは「人間の心」であると説いています。
では、一番粗雑な扱いはどういうものかというと、先ほども出てきました「得難きの貨は人の行(おこない)をして妨げしむ」です。
「得難きの貨」とは、身分不相応の獲物か何かをぶら下げて、「これが欲しかったら、こういうことやってごらん」というような、人間の尊厳を非常にないがしろにするような行為を指しますが、それではいけないのです。
ビジネスの現場には「インセンティブ・ルール」というものがあり、そうしたことを吹聴する向きもあります。ある程度はいいでしょうが、過度にそればかりになってくると、まさに「得難きの貨は人の行をして妨げしむ」となり、うまくいかない結果になってしまう。ドッグレースの犬のようなもので、疲れ切ってしまうのです。
つまり、命を一つ、傷付けてしまうことになるから、老荘思想から言うと、よくない。その人が本当に心の底から意欲的になるところを徹底的に開発することが、非常に重要なのではないかということです。
●狩りのやむにやまれぬ恐ろしさとは
一見、その人が心の底からやる気になっているような状態でも、よく見ると危険な状態がたくさんあると、老荘思想は言っています。
その一つに、「馳騁田獵(ちていでんりょう)は人の心をして發狂(はっきょう)せしむ」という、恐ろしい言葉があります。
「馳騁田獵」は、狩りのことです。狩りは面白いもので、一旦やるとやみつきになる。もっとやろう、もっとやろう、となってくる。人間の特性には、つかめない何かこそつかみたいという部分があり、そこに訴えるからです。
それをことさらに奮い立たせ、全...