●強い労働組合で経済に陰り-ヨーロッパの病人と化したドイツ
一方、ドイツはどういうことになったかといいますと、大胆な大技で東西ドイツの統一を成し遂げ、返す刀で欧州統合の拡大を推進して、ユーロを実現しました。そして、拡大EUをいわばドイツの下請け生産基地として活用すると同時に、ユーロという本来のマルクよりはるかに価値の低い通貨を使って、ドイツの国際競争力を高めました。
その結果、ドイツ人の所得は他の欧州諸国に比べ、とりわけギリシャやイタリアなど南欧諸国に比べてはるかに高いものになりました。一方、ドイツは労働組合の発言力と影響力が極めて強いのです。そして、ドイツの企業は「共同決定法」によって取締役会に労働組合代表の参加が義務付けられていますので、労働者の権利保護が徹底しています。また、アンゲラ・メルケル氏が率いるキリスト教民主同盟(CDU)と並ぶ巨大政党である社会民主党(SPD)の主たる支持基盤は労働組合で、その全国団体であるドイツ労働総同盟(DGB)は国政レベルでも強い影響力を持っています。
しかし、労働組合の発言力があまりに強く、労働者の既得権保護が徹底したために、ドイツ産業の競争力に陰りが出てきていました。とりわけそれが1990年代から2000年代の初頭にかけて顕著になりました。例えば、ドイツでは解雇規制が厳しいため、企業は労働者の雇用を控えるようになりました。それは、解雇規制が厳しいからです。一旦雇用してしまうとその労働者が不要になっても解雇できないため、膨大な固定費用の負担を強いられるのです。また、賃金にも、年金にも、休日制度にも、そして失業手当にもこのような硬直性が高まった結果、企業は環境条件の変化に敏速に対応できなくなり、競争力は大いに減退しました。この結果、ドイツは経済も沈滞し、ヨーロッパの病人(Sick Man of Europe)とさえ揶揄されるようになったのです。
●シュレーダー首相の構造改革-アジェンダ2010
このような事態に敢然と立ち向かって、経済改革を大きく推進したのがゲアハルト・シュレーダー氏です。シュレーダー氏は、1998年に社会民主党の党首として連邦首相となり、2003年から鋭意、構造改革を推進しました。しかし、この構造改革は国民には必ずしも歓迎されませんでした。2005年にシュレッダー首相は不本意ながら首相の座を降板します。しかし、その時、シュレーダー氏は「こうした構造改革には時間がかかるもので、やがて2010年ごろには効果が出てくるだろう」と語り、この構造改革に「アジェンダ2010」の名を付けたといわれます。
シュレーダー改革は、労働市場の柔軟性を高めて、年金給付を事実上削減し、企業が収益を上げられる環境を整備して、雇用増加を目指すというものでした。その主な内容を紹介します。
1番目は失業保険制度の改革です。これは、長期の失業者の給付金の支給基準を厳しくして、弾力的に縮小するものです。2番目は低賃金部門の拡大です。低賃金労働者の所得税と社会保険料の支払いを企業に対して免除しました。このために、企業は低賃金労働者をどんどん雇いました。これをミニジョブ制といいます。3番目は公的年金制度の改革です。支給開始年齢を65歳から67歳にするというものです。これには20年ほどかかるのですが、これを実現して、年金支給額を長期的に、実質的に削減することに成功しました。4番目は公的健康保険制度の改革です。加入者の自己負担を導入しました。5番目は賃金労働の柔軟化です。これは、企業は大変助かります。6番目は派遣労働規制の緩和です。派遣労働期間の制限を廃止して、いくらでも雇っていいという形にしたため、人材派遣会社の雇用が急増しました。7番目は所得税、法人税減税、キャピタルゲイン課税の廃止です。これは、人々にとっても企業にとっても大変ありがたいことです。
●「苦い」大改革の成果を享受するドイツ
こうした大改革の結果、ドイツ経済は2010年ごろから、労働コストの伸びがはっきりと低下し、失業が減少して、経済成長率が高まりました。税収もどんどん増えて、財政赤字が大幅に削減するという目標は達成されました。
シュレーダー改革は、「良薬口に苦し」のたとえではありませんが、国民大衆には大変不人気でした。しかし、その後の経済に大きな活力をもたらす上で、大きな成果を挙げたといえます。シュレーダー改革のこのような構想は、これまでにもCDUなど経営者に近しい保守派からたびたび提案されたことがありましたが、受け入れられませんでした。そんな中、このような大改革をドイツで実現できたのは、労働組合を基盤とする社会民主党の党首が強く主張し、しかも、強力に推進したからだといえるでしょう。
こうした改革を基盤にして、ドイツは目覚ましい躍進を遂げています。ドイツ経済は近年、絶好調です...