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日本の戦後復興の歩みを振り返る

現代ドイツの知恵と経験に学ぶ(3)戦後日本の復興

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授
情報・テキスト
2017年7月のドイツ訪問で多くの情報、知見を得た公立大学法人首都大学東京理事長・島田晴雄氏が、ドイツと日本の戦後復興の経緯を徹底比較。戦後、ドイツと異なり間接占領で復興に向かった日本は、東西冷戦を経て世界における位置付けを大きく変え、高度経済成長を遂げる。しかし、アメリカとのしがらみを要因に招いたバブル経済が崩壊。日本は「失われた20年」に突入する。(全7話中第3話)
時間:08:33
収録日:2017/09/12
追加日:2017/10/27
カテゴリー:
≪全文≫

●日本がドイツと異なり間接占領となった3つの背景


 今度は、日本の経験を述べましょう。日本は敗戦後、ドイツとは違って占領軍による直接占領でなく、日本政府が存在したまま連合軍総司令部による間接占領の形を取ることができました。これは大変な幸運だといえます。なぜかというと、これによって日本は統治構造や行政機構の継続性をある程度維持できたからです。

 日本の場合、こうした間接占領が可能だったことにはいくつかの背景があります。3つほど指摘したいと思いますが、1つ目は次のことになります。アメリカ当局はポツダム宣言を発して日本に降伏を勧めました。ポツダム宣言の起草から推進については、ハリー・S・トルーマン大統領の指揮下で行われたのですが、とりわけ大変な知日家であったヘンリー・スティムソン陸軍長官と知日家かつ親日派であったジョセフ・グルー元駐日大使がその任に就きました。特にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死したため、グルー大使が国務省次官の地位に就いたのですが、この2つの出来事によって強力にポツダム宣言の起草と推進をしたことが大変大きいと思います。

 2つ目は、ポツダム宣言の受諾についてです。軍部の強い反対があったのですが、最終的に天皇陛下の御意と鈴木貫太郎総理大臣の一命を賭けた決断が受諾を可能にしました。これを受諾しなければどうなっていたかというと、アメリカ軍にはオリンピック作戦と呼ばれる南九州上陸作戦、またコロネット作戦という関東平野侵攻作戦があり、これらによって日本列島全島を破壊・占領する計画だったのです。これがもし実行されていたら、ドイツ以上の厳しい戦後になるおそれがありました。それを天皇陛下の御意が防いだといえます。

 3番目は、連合軍総司令官として対日占領を現場で統括していたダグラス・マッカーサー元帥(将軍)と、その腹心にボナー・フェラーズという准将がいたことです。この准将は、若い頃から日本軍の研究をしており、「占領政策を成功させるためには天皇を利用すべきだ」と助言し続けたのです。マッカーサー将軍がこれを真摯に受け止めて、連合軍の極東委員会の意向に反しても天皇制を維持するために画策しました。それが今日の日本国憲法第9条の規定の根底にあるといわれますが、天皇制がマッカーサー総司令官の強い意志で維持されたことなども大きな背景だと思います。


●占領政策を180度転換させた朝鮮戦争と東西冷戦


 占領軍の占領政策の眼目は、日本の武装解除、そして、日本を再び軍国主義化させないための総合的な日本改造に置かれていました。アメリカの大戦直後の安全保障戦略は、世界をいかに凶暴な軍事国家である日本という国の脅威から守るかに置かれていたといわれます。そこには、食料や医薬品など若干の人道支援を別とすれば、日本の戦後復興や経済発展のための支援などはほとんど視野にありませんでした。

 ところが、これが朝鮮戦争を契機として、またその後の東西冷戦の対立構造の中で180度転換することになったのです。こうした世界史の出来事も日本にとって大変な幸運でした。1946年に、イギリスのウィンストン・チャーチル元首相は、ソ連への警戒感を鉄のカーテンという演説で打ち上げます。そして、ソ連封じ込め戦略の主唱者で、大変な影響力を持ったアメリカのジョージ・ケナン国務省政策企画本部長の「米対日政策への勧告」が出されます。このあたりから、スターリンの暴力的な世界共産主義拡張戦略に対する米英など連合国側の強い警戒感が強まり、それが日本の国際政治上の位置付けを180度転換することになったのです。

 すなわち、日本は太平洋戦争の戦犯という扱いが大きく変わり、世界の東西冷戦対立構造の中で、ソ連や中国に地政学的に近い列島の国として、西側の冷戦戦略の協力者に位置付けられたのです。したがって、1950年6月に勃発した朝鮮戦争を経て、1951年9月のサンフランシスコ講和条約、そして、同じ日にサンフランシスコで締結された日米安保条約という2つの条約が、冷戦戦略の一環としてその骨格になったのです。


●高度成長期後、アメリカ主導で円高、バブル経済の苦境へ


 日本は、朝鮮戦争の特需でドッジ不況を脱出することができましたが、その後、アメリカからのMSA援助(日米相互防衛援助協定のこと)などさまざまな支援や市場機会の開放などを享受しつつ、日本独自の傾斜生産型産業発展戦略を強力に推進。石炭、鉄鋼、造船、機械、自動車という経済構造の基礎的部門から生産力を順次戦略的に強化するという産業政策を1950年代、1960年代を通じて徹底的に進め、いわゆる高度経済成長を実現しました。

 日本の急速な成長に対して、1971年、リチャード・ニクソン大統領は円の固定為替制度を廃止し、貿易赤字に悩むアメリカとしてフロート制で新たな均衡を回復しようと...
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