●跡を継いだティトゥスの驚くべき変貌
父ウェスパシアヌスを継いだのが、長男のティトゥスでした。ティトゥスという人は、少し不思議なところがあるのです。
父の下で働いている時は、ある面では非常に民衆に嫌われていました。彼は軍人としては非常に有能だったのですが、無慈悲で残酷なところがあって、時には非合法的な手段に出ることもありました。そのように民衆や周囲の人たちは見ていましたから、彼が跡を継いだ時、周囲はおそらくギクッとしたのではないかと思います。
ところが、彼は皇帝になったら急に善人になってしまったのです。いわば、非常に好感の持てる皇帝になったということです。ローマの皇帝の周り、あるいは宮廷の中では、密告とか陰謀というものがある程度渦巻いているわけですが、そうした密告自体を積極的に禁止しました。また、帝になった時、ちょうどコロッセオが完成しますから、その完成記念のために100日間ぶっ続けで剣闘士の戦いを中心とする見世物興行を行いました。古代という時代は、もちろん前近代的時代全体がそうですが、テレビもラジオも何もないわけですから、見世物興行は大変な娯楽として歓迎され、それを観た民衆は大いに歓喜しました。
それから同時期のもう一つの大きな出来事として、79年のヴェスヴィオ山の噴火によって、ポンペイやヘルクラネウムといった都市が埋没してしまったことが挙げられます。それに対して、ティトゥスは非常に迅速に行動をして、いわば危機を克服します。彼はそうした素晴らしい有能ぶりも見せるのです。皇帝自ら被災地を訪れるということもちゃんとやりました。どこかの政治家の中には3.11の後、被災地を一切訪れなかったと批判された人もいますけれども、ティトゥスは実に迅速に対応しているのです。まさに仮面をかぶったかのように高潔な慈愛の人物に変身してしまったということです。
●父の時代にはあえて汚れ役を買っていたという説
もっとも、別の見方もあります。ティトゥスは変身したのではなく、もともと善良な人間だったけれども、父親が皇帝の間いわば汚れ役になっていたのではないかということです。皇帝は全てにおいて善い顔をするということでは務まりません。結局どこかに皇帝に対して好意を抱かない人たちがいるため、そういう人たちをどうやって黙らせるかということで、ティトゥスが皇帝の父を表に立てて裏面でそれを処理する役割を担ったということです。
だから、自分が皇帝になると表も裏もなく、まさに自分がもともと持っていた性格をそのまま出して対応するようになったのではないかとも考えられるのです。
●歴史家の疑問-もしティトゥスがもっと長生きしていたら…
実際にティトゥスの心根がどこにあったのかということは分かりません。彼がもう少し長く生きていたら分かったのかもしれませんが、残念ながら彼は皇帝になって2年ちょっとばかりで病死してしまいます。病死した時に41歳ですから、本当に中年になってからの皇帝でした。
民衆は、ティトゥスが亡くなった時、とにかく大変嘆き悲しみました。皇帝の座についていたのはわずか2年ほどですが、非常に有能で善き皇帝であるということを目の当たりに見せつけられていたからです。今、ローマに行くと、ティトゥスの凱旋門があります。一番有名なのはコンスタンティヌスの凱旋門ですけれども、フォロ・ロマーノの中にティトゥスの凱旋門も、しっかりと残っています。そのように、彼は善き皇帝として慕われていたにもかかわらず、亡くなってしまいました。
では、後の歴史家たちはティトゥスに対してどういう疑問を持ったのでしょうか。ティトゥスがあのまま皇帝を続けていたら、善き皇帝だったのだろうかということを、一つの問題にしているのです。
それまでローマ人が経験したカリグラやネロという皇帝は暴君で残虐な皇帝でしたが、彼らも最初の頃を見てみるとどうでしょう。カリグラは病気になって変わってしまったといわれていますが、最初の半年の間は、若いながらもそれなりの善政を敷いていました。ネロもそうで、最初の4~5年の間は少年といっていいぐらい若かったので、セネカ、あるいはブッルスといった人たちに補佐されて、非常に善き皇帝として振る舞っていたのです。
このように、暴君も最初のうちは善かったということがあるので、結局ティトゥスも同じように、最初はそのように振る舞っているけれども、彼がもしその後10年、20年と生きていたらどうなっていたかは分からない。後の歴史家たちはそういっているのです。
●カリグラ、ネロとティトゥスとの違い
しかし、カリグラやネロとは違っている面もあります。カリグラは20代前半、ネロにいたっては10代で皇帝になっています。それに比べれば、ティトゥスが皇帝になったのは30代後半です...