●有事に能力を発揮したマルクス・アントニウス
古代ローマはカエサルの暗殺というショッキングな出来事によって、非常に大きな転換期を迎えることになります。それまで500年にわたって共和制の伝統を持っていたローマに対して、単独の支配者が君臨するということは、ローマ人にとっては大変抵抗のあることだったので、カエサルもその疑いをかけられて、暗殺されます。
その後、後継者としてマルクス・アントニウスとオクタウィアヌス、それからレピドゥスを加えた3人による三頭政治が行われたのです。やがてレピドゥスが脱落し、アントニウスとオクタウィアヌスの抗争が繰り広げられるのですが、ローマが単独の支配者による独裁的な体制が出来上がっていくまで、十数年という期間がありました。その中でカエサルの最大の弟子であったマルクス・アントニウスは、人間としては非常に面白い男でした。彼は平時に行政や訴訟といったことを任されると何となく怠けてしまうというところがあったのですが、戦時になると大変な活躍をするという、ある意味ではとても面白い人物だったのです。
●アクティウムの海戦でオクタウィアヌスは単独の支配者へ
ご承知のように、アントニウスは地中海世界の東の方を権力基盤としており、オクタウィアヌスと対抗していく中で、エジプトにいるクレオパトラと結び付いていきます。のちにシェイクスピアの劇『アントニーとクレオパトラ』で取り上げられるような話になったわけですが、平時にはクレオパトラと毎日のように豪華な宴会を催して享楽的な生活を送り、戦士としての彼の勇ましさというものをだんだんと失っていくところが晩年にはありました。
そして最終的には、オクタウィアヌスとの対決として紀元前31年にアクティウムの海戦があり、ここでクレオパトラはだらしなく自分の船団を連れて逃げてしまいますが、アントニウスもクレオパトラの後を追って逃げていきます。アクティウムの海戦は地中海の歴史、あるいは世界史の中でも非常に大きな意味を持つ戦いだといわれている割には、海戦そのものとしては大したこともなく、戦争らしきものがほとんどなく終わってしまいます。
結局クレオパトラとアントニウスはエジプトに逃れていきますが、しょせん敗残兵ですから、やがて追い掛けてきたオクタウィアヌスの手中に落ちて、2人とも自害に追い込まれていくことになるのです。このようにして、オクタウィアヌスは単独の支配者になっていきました。
●称号を得ても、建前上共和制の伝統を守ったアウグストゥス
オクタウィアヌスは紀元前27年にアウグストゥスという称号をもらったのですが、建前上、ローマはこの段階でも、その後数十年、あるいは数え方によっては数百年、帝国つまり皇帝が支配する国であるということを表立ってはいいませんでした。共和制の伝統があるから、あくまでもその伝統を守っていくということを行っていくのです。共和制の伝統を守るとはどういうことかというと、元老院の意見を尊重するということです。
そうした形で、アウグストゥスはカエサルが実行しようとしていたことを次々と実現していくわけですから、政治的な意味での天才だといっていいと思います。
カエサルはあれだけ世界史の中に大きく名前を残していますが、実際に彼が権力を持った期間はたった5年しかありません。彼はその5年の間にいろいろな改革をしますが、暗殺されてしまったので、ほとんどのことが業半ばで終わってしまいました。その後、アントニウスとオクタウィアヌスの対立ということになるのですが、オクタウィアヌスはカエサルの孫に当たるため、カエサルと血のつながりがありました。しかし、カエサルが暗殺された頃、彼はまだ17~18歳ほどで非常に若かったため、まだこれから、海のものとも山のものとも知れないようなところもありました。
●中央集権体制をめざし数々の改革に取り組む
ただ、カエサルはおそらくオクタウィアヌスの中にとてつもない政治的な手腕のようなものを見抜いていたのではないかと思います。実際にオクタウィアヌスは、軍人として大したことはありませんでしたが、自分の側近にアグリッパという軍人として非常に優れた男を置きました。アグリッパはさまざまな面でオクタウィアヌス、つまりアウグストゥスを軍事的には支えていくことになるのです。
それまでローマは100年近くにわたって内乱を続けていたのですが、非常に広大な地域を支配下に収める属州支配の時期になっており、今までの都市国家の伝統的なやり方ではもう統治できないという段階に来ていたのです。そうした大きな流れの中、アウグストゥスは、共和制の伝統を守ろうとする人々との関係もありましたが、現実に即して考えるとある種の強力な中央集権体制のようなものをつくっていかなければなら...